
モナコの1日 午前の部
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ここでは、モナコで安いホテルの多い旧駅地区から、一日を始めてみよう。
昔の国鉄の駅があり、庶民的な店や市場さえあるコンダミン地区(Condamine)である。
かつて駅のあったこの辺りでは、朝8時前から、列車が着くたびにたくさんの通勤する労働者が、事務所や商店へと歩いていった場所だ。東のイタリアのヴァンチミリア方面から着く列車はイタリア人が、西のニース方面から着く列車にはたくさんのフランス人が乗って、モナコに着くと各々の仕事場に急いでいた。
モナコで働いている人たちは、モナコ内に住んでいる人より、フランス、イタリアから来る人たちの方が多い。モナコの高い家賃を考えると、フランスイタリアに所得税を払っても、その方が安上がりなのだ。
今は鉄道もモナコ領内ではすべてトンネルで地下にもぐり、モナコ駅さえ数百メートル離れた山の中の地下駅となった。しかし今でも、新駅からかつての駅の場所までトンネル通路があって、事務所やショッピングセンターのあるフォンヴィエイユ地区に向かう人たちは、新駅から数百メートルのトンネルを通って旧駅の出口に現れるのである。
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<王宮>と言っても、モナコはキングの国ではなく、プリンスの国だから、<王子宮>と言わなければならないが、ここでは慣習に従って王宮ということにする。
王宮に上がる道のふもとに、ちょっとした広場があって、そこはプラス・ダルム(Place d’Armes)である。

今はなんだか取り澄ましていて、きれいに整備された噴水はいつも水を噴き上げ、果物も野菜の値段も高いし、お上品になったような気がする。
野菜や果物、花の露天商の他に、肉屋や、高いので有名なRINALDIという魚屋があったりする。この魚屋は自分の船を持っていて、取れたばかりの生のマグロや魚を売っている。要するに漁師が魚屋を開いたという事か。
広場にイスやテーブルを出したカフェに、朝、いつもたむろしている男が数人いる。黒の服を着ていて、近くの警官も彼らに挨拶していく。朝のこの時間いつもカフェを飲んでいるので、これから仕事に就く警察のお偉いさんか衛兵の関係者に違いない。
3万2千人しか住民のいないモナコは、いつまでたっても村のような気安さがある。道を歩いている人や、カフェにいる人たちと顔見知りになれるのだから。
ボクも同じカフェで朝食にする。カフェオレとクロワッサン。かつて日本からヨーロッパに来たばかりのころは、 朝この組み合わせで朝食をとると、胃がむかむかして数年間は慣れなかったものだ。 しかし今となってはすっかりおなじみの献立だ。 カフェオレ2、5ユーロ、クロワッサン1,2ユーロ、フランス風の朝食はモナコでも習慣になっている。
さて腹ごしらえが終わったら、王宮に続く坂道を登って本格的な散策の始まりだ。
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モナコヴィル地区に向かって坂を登っていく。入り口のところに、裸の人は王宮に入れないという立て札が立っている。王宮は尊敬すべきところだから、服装でそれを表わせ、ということだろう。アメリカ人はあまり服装にこだわらないというが、裸になりたがるのは北の国から来たドイツ人や北欧の人が多いようだ。警官がこうした人を見つけると、服を着るように注意する。それでも従わない人は罰金である。罰金の金額は30ユーロほどと聞いたことがある。名前を記録されて、次回モナコに来てもその記録は残っている。

坂道は特に急なわけでもなく銃眼のある塀や港の眺めを楽しみながら登っていく。 朝の腹ごなしにはちょうどよい距離だ。登るのに10分もかからない。うちのヨメは、上にある幼稚園へ子供の送り迎えのため、毎日この道を往復している。自宅のあるフォンヴィエイユから、王宮のほうに車で行こうとすると、一方通行が多くて、とんでもなく大回りになるのだ。朝の渋滞の時間帯には、歩いていった方が余程早くて、健康にも良いというわけだ。
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坂を上りきると、僧の格好をした銅像が見えて、王宮前広場(Place de Plais)に到着した。
すぐ左手には、モンテカルロの港と町を見下ろせる展望台があって、観光客が写真を撮っている。漁師の格好をした石像は、1914年4月13日にできたアルベール1世の統治25年を記念した海外植民地の記念像である。
展望台から見る風景は、モナコの港を見下ろすように建つアパート郡である。上から見るとモナコとフランスの国境が良く分かる。階数の多い小ぎれいなビルのあるところがモナコでA比較的低くて、小ぎれいでない建物がフランス側、ボーソレイユに建っている。
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王宮から反対方向の南東へ向かって、細い路地を入っていく。Rue Felix Gastaldi である。みやげ物屋やアイスクリーム屋、レストランが並んでいて、世界中何処へ行っても同じ風景だ。
売っているものも大体同じで、観光地の名前の入ったT−シャツ、トレーナー、コーヒーカップ、お皿にスプーン、絵葉書に国の歴史を説明する小冊子―――。 世界中の観光地、香港やサンマリノ、パリだったりしても、置いてあるものはどこも同じだ。
モナコではもちろん<モンテカルロ>や、<モナコグランプリ>の文字が入っている。
並行した細い道には蝋人形の博物館があったりする。入場料3.8ユーロ。
モナコの歴史的な一場面を蝋人形で作ったもので、パリやその他観光地にもよくある。
しばらく来ていないと、新しい発見もある。 古い建築の丸い天井もそのままに、油絵を売っているギャラリーがあったり、普段前を通っても一度も入ったことのない礼拝堂があったりする。今日は観光客然と見物していく事にする。
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市役所広場 (Place de la Mairie)には、市役所の前に古い井戸があり、郵便客やおもちゃ屋が並んでいる。モナコの国は、一国が他の国の市くらいの大きさしかないのに、国の役所もあれば市役所もある。市役所には子供がモナコの病院で生まれたときに、出生届に来た事がある。証人が必要で、娘のセシルのときにはスイス人、息子のイッセイのときにはイギリス人の知り合いに証人になってもらって、重々しく厚い帳面に署名したのである。
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広場から左の方へ、Rue Princesse Marie de Lorraine の通りを150メートルほど行くと、下から上がってくる1番と2番のバスの終点の広場がある。1番はモナコの東端のサンロマン(San
Roman)発。2番バスは、モナコの丘の西端、熱帯植物園(jardin exotique)とここを往復している。
広場には、うちの娘と息子も通っている幼稚園があり、うちのヨメは毎日2回か3回、ここまで子供の送り迎えに来ている。
幼稚園児の送り迎えは、親がしなければならないことになっていて、お手伝いさんでも、幼稚園にちゃんと登録していないと子供を渡してもらえない。幼稚園児の誘拐の話も聞くし、両親の離婚に絡んで子供を親が誘拐さながら連れ去って問題になったりしたことがある。うちにはお手伝いもいないし、日本人の両親なので、幼稚園側もすぐに覚えてくれた。
この学校は幼稚園から小中学校、高校まであって、朝夕の送り迎えの親の車も広場で渋滞している。
広場には交通を整理したりする警官がいつもいて、大型のバスが来ると、送り迎えの車がバスの邪魔にならないよう合図している。
うちのヨメはどうも警官との相性が良くないのか、いつも警官が嫌がらせをしているような印象を持っている。他の人が平気で駐車しているような場所でも、うちのヨメが車を停めようとすると、警官が来て<行け行け>と言うのだ。
モナコ王室ご用達のチョコレート屋、ショコラテリドモナコの店もこの広場にある。十年ほど前まで店はコンダミンの上の方にあって、所有者もベルギー人のオッサンだった。彼が病気でモナコの投資会社に店を売って、新しく出来た店がここである。チョコレートやお茶、マロングラッセなども売っている。奥では席が何席かあってコーヒーやお茶、ココアが飲めるようになっている。子供の出生届けの後、ここでシャンペンを注文したら、ないと言われた、アルコールものはないのだ。
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バス停の横を50メートルほど下って右に下る細いレンガ敷きの道に入ると、 30メートルで海洋博物館 (musee oseanographique) に出る。立派な教会かそれこそ宮殿のような建物は、アルベール1世が始めた博物館なのである。
海洋博物館の入場料は、大人11ユーロ、子供6ユーロ。学生6ユーロ。
水族館としてみたならば、鳥羽の水族館やヨーロッパで一番大きいジェノヴァの水族館の方がインパクトが大きいが、やはりここはモナコ。 アルベール1世が、世界の誰よりも早く海洋の重要性に注目して作った博物館、という歴史の方を見るべきであるのか。
入場無料の売店に入ってみる。やっぱりお土産物屋の域を出ない商品が並べてある。
あるガイドブックに、<ここのレストランは、単なる博物館のレストランの味を越えている> と書かれていて、一度食べに来てみたことがあるが、やっぱりどっかの社員食堂以上のものではなかった。
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太陽の光に惹かれて、博物館の右手の海の見えるほうに降りていくと、タコの銅像が偉そうにとぐろを巻いている。サンマルタン公園 (jardins Saint Martin)
である。
広々した地中海のヨットやクルーザを眺めながらしばらく歩くとフォンヴィエイユ港が見えて、最高の散歩コースである。ドイツのハノーバー公のヨメに行ってからはあまり見ないが、上の方にはキャロリーヌのアパーgがあって、時々古いベンツ(の後ろ)に乗って出てくる。ブーゲンビリアの咲き乱れる、手入れの行き届いたしゃれたアパートである。

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サンマルタン公園が終わると上の道に戻って、モナコカテドラル (cathedrale) を見ておこう。チュルビ村から切り出したという石でできた大聖堂である。

観光客が多いと一列に行列ができて、少しずつしか前に進まない。観光客の話し声がうるさくなると、係りの男が<シー!>と静粛を促す。しかし5分もすると観光客はまた話に夢中になるので、<シー!>とやられる。ここは教会なので静粛を、と言いたいのだろうが、迷える子羊に向かっての <シー>はやっぱり家畜扱いだ。
カテドラルの奥を半周するころ、グレースケリーのお墓があり、いまでも色とりどりのバラが飾られている。

その隣の場所は空いていて、まだまだお墓を作るスペースがある。
次にここに来るのは??
アルベール(今やアルベール2世大公)も毎年初めには、今年こそ結婚するか、と騒がれるものの、未だに独身。2005年レニエ大公の死後、エアフランスのスチュワーデスとの間に子供がいるのが発表されたが、結婚はしない模様。この教会の並びに骨をうずめる人が誰かは、まだ決まっていない。
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カテドラルを出て、右手にある裁判所に続く道を50メートルも行けば、王宮前の広場にまた出てくる。観光客の数が朝より格段に増えたのは、11時55分から始まる衛兵交代のセレモニーを見る人が多いからだ。
観光客の中に混ざって、始まるのを待ってみる。カメラを持って東洋人の顔をしたボクは、どこから見ても一介の観光客だ。大衆の中にあって大衆を楽しめるのは芸術家だとボードレールは言ったが、アーティストでないのかボクには大衆は楽しめない。何よりも体臭がーー?
11時55分、チャイムが鳴ると、王宮の奥から、先に銃剣のついた旧式の小銃を担いだ衛兵が6人出てきた。王宮の広場の反対側にワゴンバスが停まっていて、そこから同じような6人が出てきた。新しい6人の衛兵が前の6人と交代するのである。
途中でばかばかしくなって観光客の列から離れたが、交通整理している衛兵に行く手をさえぎられた。式が終わるまで道を横切れないのだ。
暇つぶしに、<このセレモニーはいつからやっているのか> とその男に聞いてみた。
<1917年からフランス人が衛兵になって、それ以来続いている、以前はモナコ人衛兵だったが、その時もやっていた。>

やっとセレモニーが終わると、正午、お昼時である。
この近くで昼食を取るとしたら、モナコ料理の<カステルロック>であろう。
王宮関係者がふだん昼食を食べにやってくる。ここのパトロンも王子さまの知り合いであるという。
定食は3皿の23ユーロと、4皿の42ユーロがある。
アラカルトでモナコ料理のお勧めの前菜は、モナコ風前菜盛り合わせ 16.5ユーロ。 メインのお勧めは、干し鱈をイモとオリーブなどと煮込んだもの 26.5ユーロ。 ワインのお勧めは、ニースの空港のちょっと北でとれるBELLETの白、42ユーロである。
午後2時半、2時間以上ゆっくりと昼食を食べて、ワインのほろ酔い加減で、観光客の少なくなった王宮前広場から、登ってきた坂道をぶらぶら下りれば、港から吹いてくる風が心地よい。