
スペイン旅行記 (2012年4月22日 − 29日)
チンチョン、エストラマデーラスペインを、ボクが初めて訪れたのは30年も前。真夏に自転車を繰りながら、地中海に面した海岸をフランスから南下して、バルセロナ、アリカンテを経てムルシアまで行ったときのことだ。
コスタデルソルの激しい日光のなか、白い砂のまぶしい海岸でトップレスの若いスペイン娘の乳房についた水滴が光っていたーーー。 ずいぶん昔の、ボクが初めて訪れたスペインの原風景だ。
今回のスペイン行きは、マドリッドの近くチンチョンと、その南方エストラマデーラ地方である。
ニース・マドリッド行きの飛行機のチケットがなかなか取れず、ニース国際空港から乗ったのはスイスのジュネーブ行きの飛行機。
ニースからいったんスペインと逆方向の東に飛び、ジュネーブで一泊した後、早朝の飛行機でジュネーブからマドリッドに行くのである。プロテスタントのスイスから、いきなりカトリックのスペインに入る、コントラストの強い行程である。
チンチョン
マドリッドの空港に到着後、最初に訪れた場所は、マドリッドの南45km人口5千人ほどの田舎の村、チンチョンである。
レンタカーでマドリッドの郊外を抜けると、緑もほどほどにあるなだらかな丘が続く。チンチョンはマドリッドから日帰りで行くには最適なドライブコースだ。
村のはずれの岡の上に城の跡があり、そこから村の様子を見渡すことができる。手前の野原には野生の花が咲いて、太陽の光に陽炎がたっている向こうにチンチョンの村が見える。ゆったりとした傾斜の丘に、人々が寄り添って暮らしているのが分かる。特に何があるというわけでもないのに、なんとなく落ち着いたほっとする村である。
チンチョンの歴史は先史時代までさかのぼることができる。しかし史料に現れるのは15世紀以降のことである。スペイン帝国になってから、チンチョンは王室と親密な関係を持ってきた。アラゴンのフェルナンド2世、カスティーリャのイザベル1世、その娘のフアナ、フェリペ、カルロス5世などの王様がこの町に滞在した。カルロス5世のときにチンチョンは伯爵領になった。17世紀のフランチェスカエンリケ・デ・リベラ伯爵夫人は、マラリアの薬キニーネの開発に貢献した。
スペイン植民地のペルーのキナの皮から、熱帯地方の征服に必要な薬を作ったのは、スペインの知恵というべきか。
チンチョン村の名前は、ゴヤの伝記にも出てくるなじみの地名だ。ゴヤの弟がこの村の坊主だったほか、ゴヤの作品にも<チンチョン女伯爵><聖母被昇天>がある。
チンチョンの村は、差し渡し100mもないマイヨール広場を中心に広がっている。
有名なこの広場は1974年に芸術的史跡に指定されている。広場の周囲には16世紀の建物がそのまま残っており、変則な円形に中央がすり鉢のようにへこんでいる。その広場の形からイタリアのトスカナ地方、シエナのカンポ広場を思い出したが、チンチョンのマイヨール広場を取り囲む建物はシエナのような石ではなく木造だし、石作りの立派な高い塔もここにはない。木造テラスのついた建物は3階建てで低く、いかにもスペインの田舎に来たなと感じさせる。
チンチョンの名物といえばアニス酒で、我々も試しに飲んでみた。マイヨール広場に面したところはあまりに観光客向けだろうと、あえて小さな通りに入った場所にあるバーに入る。<チンチョン名物のアニス酒をくれ>というと、ひげの濃いバーのおっさんは甘口と辛口があるがどちらが良いかと聞く。 好奇心まんまんのボクたちは、どちらも試してみた。フランスやギリシャのアニス酒のように、水で薄めて白濁したところを飲むのかと思ったら、ここではグラスに氷を入れてそのまま飲むのであった。甘口のほうが口当たりが良いのだが、どちらもずいぶんアルコールがきつい。聞いてみると50度あるという。ソーセージを2cmほどに切って炒めたものがタパスのように置いてあるので、それとチーズ(ケソ)を頼む。昼飯前の一杯にしては、十分な重みがある食前酒だった。
軽く引っ掛けるというより酔っ払ってしまうほどの食前酒の後、昼食は広場に面したレストラン <イベリアカフェ>で食べることにする。広場を見下ろせる幅の狭いテラスの席につく。 前菜はチンチョン名物のにんにくスープと、メインはレストランの給仕のお勧め、アサリの蒸したものである。ワインは14度もある濃厚な地元の赤ワインである。
天気は快晴で、広場には半分に陽があたり、半分は日陰になっている。テラスから広場を見下ろすと、半そでやTシャツの観光客らしき人たちが、カフェでビールのコップを前に日向ぼっこをしているのが見える。
なにやら動物の臭いがすると思ったら、6頭のロバが広場にいた。前を行くロバの尻尾に後のロバの頭がつながったように、一本の鎖のようになって、背中に子供を乗せては小さな広場を一周している。1人の子供でもお客がくれば、6頭のロバは一直線につながれたまま広場を一周させられる。先頭のロバは背中に2歳か3歳の子供を一人乗せて、その他のロバは誰も乗っていなくてもただ単に広場を一周する。
いつもそこで子供たちを相手に商売しているのであろう、先頭のロバを引くおっさんはすっかり日焼けしている。ボクたちが昼食を食べていた2時間ほどの間に、ロバたちは広場を2−30週はしただろう。たった一人のお客のために、直射日光の中をとぼとぼ歩くロバ。 強烈な直射日光に毛皮を射られた動物は、背中ではしゃぐ子供にも、別世界の出来事のように無関心のままである。
その日の宿泊はチンチョンのパラドール。 スペインでも有名な国営の宿泊施設である。 17世紀のアウグスティノ派の修道院を改造してホテルにしているのである。
チンチョンのパラドールは、居心地のよいパティオや整備された庭にプールまでついて、村一番の豪華宿泊施設になっている。改装工事をしたばかりのガラス張りの無機質のレセプションとは対照的に、部屋の並ぶ建物は薄暗い廊下が暗闇に見えなくなるまで続いていて、キリストの描かれた絵画や、聖人の彫刻などがあちこちに飾られている。夜一人で廊下を歩いていたら、背筋が寒くなるような雰囲気がある。古いほこりの匂いと、いままでそこを通ってきた人間の残り香。 それこそ数百年の歴史の匂いである。その昔、ここで修道者たちは何を考えてどんな暮らしをしていたのだろうか。俗世間を離れて質素な食事に読書と瞑想、神の存在を体感し、祈りの中に人間の小ささを感じていたのだろうか。それとも、どこかの修道院のように、天井裏から嬰児の骨がごろごろ出てきたという酒池肉林だったのか。
夜のチンチョン広場に散歩に出る。 昼間のいかにも観光客然とした人たちがどこかに消えて、地元の人が三々五々歩いている。
<うちの娘は美人になるで。 昨日も隣のアンドレの息子が言い寄っていた。まだ4歳なのによー> <そりゃアンタの奥さんは美人だから> <でも最近の子供はませてるぜ> わーはっはっは
たぶんまだ40歳ほどの男は、肌はつやつやしているのに頭はすっかり禿げている。 好奇心を持つ余裕もなく生活に疲れながら、しかし愛妻と子供をかわいがることで日々の時間と精力を100%使っているふうな小市民である。今まで一番遠いところに行ったのがお隣の国ポルトガルだったとか言いそうだ。 しかし、何万キロも離れた日本から来て、何十カ国も歩いているボク達が偉いのではない、ボク達は生活からかけ離れた観察者、旅行者でしかない。
翌日の朝食は1階のレストランで食べる。 パラドールに泊まっている客は数組しかいなかったようだ。 アメリカ人の夫婦、ドイツ人らしい2組の老人。 ミルクコーヒーの中にパンを浸して、どろどろになったところを食べていたのは、フランス人だったのか。
隣のテーブルの人と話になる。アメリカ人で30歳くらいの男は学校の先生で、奥さんは音楽家だ。スペイン旅行は2回目で <スペインは神の国だ> という。
どんな宗教論議が始まるのかと一瞬身構えしたものの、彼の話は奥さんとの出会いについてだった。 初めてのスペイン旅行のコンポステラ・サンジャックの巡礼の道で今の奥さんと知り合ったのが、神の思し召しだというのだ。 ボクは巡礼の道のことは知っているが、歩いている人は案外出会いを求める人が多いとも聞いていたので、ちょっと白けてしまったが、まあ本人がそういうのだから、神の思し召しということにしておこう。アメリカ人は単純だなあ。
出発間際にパラドールのレセプションのところで、60過ぎの夫婦連れの20人ほどの日本人グループにすれ違う。たったいま観光バスで着いたようだ。 こちらを日本人だと見ると、どこから来たのか、どこに行くのか、仕事はなにをしているのか、お決まりの質問を関西弁で遠慮なくしてくる。今まで精一杯に仕事に励んできて、やっと一息話の種にヨーロッパ旅行に来ました、という雰囲気。ヴェネズエラの奥地でも日本人の老年グループに会ったことがあるが、日本人の老人もなかなか活動的で好奇心旺盛ではないか。
エストラマデール
チンチョンを後にして、車でエストラマデールに向かう。
エストラマデール県は、ヨーロッパの辺境のスペインでもまた辺境で、ポルトガルと国境を接する荒涼とした不毛の土地である。車で走っていて見えてくるのは豊かな自然(すなわち人の気配がない)の中で、鳥や動物を観察する、バードワッチャーたちの姿、そしてたまにしかない村があると南アメリカを思わせる砕いた石の家が数軒あるだけである。
<自然>という言葉は、日本のような癒される温かさはない。ここでは<自然>は荒々しくて人を寄せ付けない、死に直結する荒廃した厳しいイメージを持っている。
今でこそ観光客も立ち寄らない出稼ぎが多いエストラマデールであるが、ローマ時代の橋や建物、円形劇場などの遺跡が多く残っている。 2000年前のローマの時代には、ルシターニャと呼ばれて栄えた地方だった。
ローマの遺跡と同じように、アラブの城もあちこちに残っている。アラブ人はローマ時代の繁栄を引き継いでそれなりに繁栄していたものを、決定的に不毛の廃墟にしたのはレコンキスタ、すなわちキリスト教の蛮族だった。
キリスト教という大義名分で、しかし本音は富の収奪と権力の拡張だったのは、11世紀から13世紀の十字軍もそうだったし、16世紀の南アメリカの征服もそうである。19世紀にイギリスが中国に、インドのアヘンを清に押し付けてアヘン中毒を蔓延させ、自分の欲しい銀と絹を本国に持って帰ったのは、<神が与えた権利> だったのだそうだ。
エストラマデールの古都メリダから、北東に100kmほどのところにあるトルヒージョは、南米の征服者フランシスコ・ピサロが生まれた村である。
1532年11月16日、フランシスコ・ピサロはインカの皇帝アタワルパと、ペルーの北方カハマルカで出会った。アタワルパはインカ帝国の何百万人もの人を支配した現人神、絶対神と崇められ、ピサロと会ったカハマルカでは8万人の兵士に守られていた。それに対しピサロ側は大砲1門、27頭の馬、60人の騎兵、106人の歩兵しかいなかった。
ピサロはアタワルパに、<侮蔑も危害も加えない、友人として会いたい> と言いながら、優れた武器とインカ人の恐怖心を利用して、百数十人のスペイン兵は7000人のインディオを殺し、その何倍ものインディオに怪我をさせ、皇帝アタワルパを生け捕りにした。
身代金として、広さ11畳の部屋、5.4m x6.6m 高さ2.4mの大部屋に一杯分の黄金(67トン)と、2杯の銀を供出させた上で、皇帝を自由にするという約束を破り、アタワルパを火あぶりにして処刑した。
スペインの辺境で生まれ、文盲で教育のない豚飼い男に、何百倍もの軍隊を持っていたアタワルパは自分の帝国で殺されたのだ。
ピサロ自身もろくな死に方はしない。内部分裂の内戦でディエゴ・デ・アルマグロを殺し、その子孫によってピサロも1541年に殺された。
進んだ航海術、優れた武器を持ち、天然痘の免疫を持っていたスペイン人ピサロは、時のスペイン王カルロス1世の許可を得てペルーの征服に来ていた。 カハマルカでは、宗教者ビセンテ・デ・バルベルデが、アタワルパに改宗を迫り、会話がうまく通じないばかりに、聖書を落としたアタワルパに対しての戦いの合図を兵隊に送ったのだ。それは二つの遠く離れた文明の悲劇的な出会いと結末であった。
1935年には、エストレマドゥーラから、建都400年のペルーのリマ市に、ピサロの騎馬像が送られた。リマの教会の前にあったこの像は、その後目立たないところに移され、<市民の感情に合わない>との理由で今では撤去された。インディオの子孫は、自分たちの祖先を何百万人も殺した征服者の銅像にどう対峙すればよいのだろうか。 エストラマドゥーラの人たちは、いったい何を考えてピサロの騎馬像をリマに贈ったのだろうか?
2年前にボクが南アメリカに行ったときに、現地で会ったインディオのガイドが、いまだにコンキスタドールのスペインをうらんでいたのだが、それは当然のことだろう。
アフリカで生まれた人類は進化と移動を続けながら、3万年前にモンゴロイドがベーリング海峡を渡って南北アメリカに拡散していった。モンゴロイドのボクにとって、南アメリカのインディオはひょっとするとボクの祖先ともどこかで何かの関係があったかもしれないと思われる。 アジア人のボクは、心情的にインディオなのである。
ピサロの生まれ故郷トルヒージョの町の広場には、今でも鉄の鎧兜に身を固め、剣を抜いた騎馬姿のピサロの大きな像が建っているし、ユーロになる前のスペインペセタの紙幣にはピサロの像が描かれていた。 ピサロの卑劣な行動がスペイン人の誇りだと言わんばかりではないか。
<ピレネーの向こうはアフリカ> といわれた産業もないスペインが、武力を背景に植民地を持ち、騙し、殺し、略奪してきた年に数百トンの金や銀、財宝でスペインは栄えた。 世界中に植民地を持ち、略奪収奪の限りを尽くし栄える宗首国。それを見たイギリス、フランス、オランダ、アメリカも植民地を持つことに奔走し、遅れじと参加した日本だけがタイミングを失った。 いまだに支那や朝鮮に謝罪しまくっている日本は、このスペインの厚顔無恥さを、少しは見習うべきではないか。
そんなことを考えながら、トルヒージョの広場のピサロ騎馬像を見る。広場の周囲には、石造りで装飾が施された建物が重厚な趣を添えている。バロック調のサンカルロス公爵邸もすぐ東側にある。 広場から岡のほうに登っていくとやはり立派な石造りの邸宅があるものの、石灰質の石はすでに風化が始まり、壁には動物の内臓のようにくぼみができている。ピサロ博物館は、申し訳程度に資料が並べられているだけだった。 さらに岡を上っていくと、アラブの時代の城の廃墟がある。アラブの時代と16世紀の興隆の後、現代の観光客だけが産業の寂れた村である。
トルヒージョ宿泊の夜、ホテルから夕食を求めて街に出たものの、結局人影の絶えた街で見つけられたのは、持ち出しピザ屋一軒だけで、チーズのきいたピザとサラダを食べた。他にいた客は同じようにレストランを探していた観光客が一組だけだった。
なるほどミシュランガイドスペイン版を見ても、この街では一つフォーク(質素)のレストランがたった一軒しか紹介されていない。 そしてそのレストランの名は <ピサロ> だった。
翌朝は、トルヒージョから南のメデジンの村に向かう。
メデジンの村もコンキスタドール、コルテスを生んだ村だ。
エルナン・コルテスは、インカの人々に、インカの神話の肌が白くてひげの神ケツアルコアトルの化身と勘違いされて、また現地人に免疫のない天然痘を持ち込んでインカ帝国を滅亡させた。略奪、強姦、虐殺、インディオを奴隷化して好き放題なことをしたのは、他のコンキスタドールと同じだ。
なぜエストラマデール地方から多くのコンキスタドールが出たのだろうか。
もちろん地方が貧しくて他に出て行かなくては食えなかった理由があろう。またその地方の性格、武断的で荒々しい住民の性格もあったかもしれない。しかしやっぱり、ボクが想像するに、南アメリカに実際に行ったコンキスタドールたちは、その時の経験や知識を、地元の知り合いや同郷のよしみにだけ話したのではないか。 ピサロの部下クリストバル・デ・メナ船長は、アタワルパの処刑から9ヶ月後の1534年4月には、ピサロの征服物語をセビリアで出版して、瞬く間にベストセラーになった。しかし実際の出征に役立つ情報は本には書かれていなくて、口伝えにエストラマデーラ地方の人に話し伝えられたのではないかと想像する。他に情報源のない時代、情報を持っているかどうかは死活問題だったに違いない。南アメリカから帰ってきたコンキスタドールは、その経験を地元の若者に伝えたに違いない。トルヒージョやメデジンの若者に。
メデジンの村の横にはオルティカ川が流れ、村に入るにはローマ時代の石の橋を渡る。 すなわち2000年後のいまでも使われているローマ時代の石橋を車で渡って行くのだ。現代の荒涼とした地方は、2000年間植民地からの略奪以外に生産的なことを何もしなかったかのようだ。
メデジンにはトルヒージョのような石の邸宅はなく、くたびれた教会といかにも安普請の住宅があるだけで、村の北はずれには、これまた古びた教会があり、その横ではローマ時代の円形劇場が発掘されていた。そのすぐ上にはアラブの城の廃墟があり、岡を上ってみたものの訪れる観光客もおらず、門は閉まったままであった。 乾いた風に吹かれながら見た岡の上からの眺めがすばらしい。 左のほうに車で通ってきた道が一本荒地の中を通っている。 ゆるやかな地平線の向こうまでオリーブの畑が点々とあるだけで、人家は手前の村にあるだけだ。
かつて栄えた都市、国、国民というものはどことなく悲しげな顔をしている、とボクは思う。 今のギリシャや、ローマ帝国のイタリア、オスマントルコのトルコ、海洋帝国ポルトガル、チンギスハンのモンゴルしかり、大帝国だったスペインの、特にコンキスタドールを排出したエストラマデールしかりである。 5分の一は国王に、5分の4は自分で取ったはずの金銀財宝の数百万トンは、いったいどこに行ったのだろうか。コンキスタドールに殺された、あるいはスペイン人が持ち込んだ天然痘で死んでいった数百万人、数千万人の人たちの命は何だったのか。南アメリカで話される本国とはちょっと違うスペイン語と、原住民とのあいの子の顔つきが、スペインの悪徳の歴史を感じさせるだけだ。その他には、なにもない。
トルヒーヨの石造りの古びた数軒の館を除けば、メデジンの村は本当に何もない。ローマ時代の遺跡と、アラブの城跡と、コンキスタドールの銅像しかない村だった。
村はずれのバーで、地元の人の顔を見ながら、シェリー酒と白ワインですっかり酔っ払った頭で、ボクは<歴史とは何か>と考えていた。
フランス人は野生的?
2008年の年末の旅行は、家族でパリからオーヴェルニュ地方を回ってモナコまで帰ってきた。
パリでは、普段モナコで食べられないようなもの(すなわちおいしい日本食と中華が中心となるのであるが)を食べまくり、パリにしかない美術館などを回り、
子供たちはヴィレットの科学博物館とエッフェル塔に登って大喜びの日々だった。
ところが、パリの滞在も終わりに近づいたときに、息子のイッセイが激しい下痢と嘔吐を始めてしまった。次の日は娘が発病。その次の日はヨメ。
-- これは <ガストロ>というバクテリア性の腸炎で、2004−2005年には200万人近くの人がこの病気にかかっている。そして2008年もその記録に届こうかと言う流行病なのだった。
何故流行性の病気がこのように蔓延するかというと、やはりフランス人が食事の前に手を洗わなかったり、外出さきから帰ってもうがいをしなかったり、ということが大きいと思う。
見ていると、ほとんどの人はレストランに入ってきて、手も洗わないでそのまま座ってパンを素手でちぎって食べている。 車を運転したり、ドアの取っ手などに触った手で、そのまま、である。
ボクがレストランのトイレに入って、先の人が手を洗わないでそのまま出て行くのを良く見かけるのには驚かされる。
もっと極端な実例では、レストランの給仕のおっさんがトイレから出てきて、ボクの目の前を、手も洗わないでレストランホールの給仕に帰っていったのを見て、その日のレストランの食事がまずく感じたのは言うまでもない。
ちなみに、<ガストロ>と言う言葉を調べてみると、日本語ではガストロノミー(美食)の略のように使われていて、<ガストロハンバーグ>という言葉さえあるではないか! 語源としてはギリシャ語のガストロス(消化器)なので、同じと言えば同じともいえるが、フランス語の<ガストロアンテリット>の、激しい液状の下痢と嘔吐、虚脱感という陰惨なニュアンスとは程遠い使い方である。
日本人の感覚からするとフランス人は野蛮だ。 かの詩人アルチュールランボーが、フランス人のことを<ゴール人の末裔だから>と言ったのもその野蛮さを指したものだ。
中世のころフランス人はシャワーも風呂も嫌っていて、水で体を洗うということは生命力を洗い流すことだ、と解釈されていた。体臭がきつければきついほど、生命力の強い男らしい(または女らしい)人と思われていたのだ。
太陽王ルイ14世がベルサイユに宮殿を造ったのは、パリのあまりの悪臭に耐えられなかったから、とか。
現代でも、他の国にくらべてフランス人の石鹸の消費量が低いのはよく言われることだ。 開高健は、パリの道を歩くと雲古とお叱子のオンパレードだと喝破した。(見れば分かるか?)
イタリアのレストランに行くと、どんな小さなところでもトイレにはちゃんと石鹸と手拭用の紙が置いてあって清潔にしてあるのに、フランスでは、石鹸と紙の容器はあるのに中身がないことがほとんどだ。
フランスのガストロ病の流行やレストランで見かける異様な風景は、やっぱりゴール人の末裔だからか、と思わざるを得ない。
ボクの言い方で、<フランス人は、個人主義で、経済観念が発達していて、エスプリが利いている> に、<野生的> という言葉も付け加えよう。
別の言い方をすれば、わがままで、けちで意地悪、そして不潔、ということか。
しかしながら、病気は細菌が引き起こすのを発見したのがルイパスツールなるフランス人なのは、フランス人の名誉のために付け加えておこう。
モナコの警察も時には
<モナコの警察はモナコ中に目を光らせていて、モナコは法律が守られて安全で、世界中の金持ちが安心して住める>。 これはモナコが世界中に売り込みたいモナコのイメージである。しかしモナコに何十年も暮らしていると必ずしもそうでない経験もある。
今日昼前に、エルミタージュホテルの前の道の横断歩道を歩いて渡ろうとした時のこと、警察のパトロールカーがゆっくり走ってきて、ボクが道を渡ろうとしているのに、危うくボクに当たりそうなところで停車した。
<コラ、気をつけろ!> (もちろんフランス語で)
窓が開いた運転席の、制服の警官に向かってボクは怒鳴った。
緊急でも何でもない時に、横断歩道を渡る歩行者に道を譲るのは当然だ。
いつもは歩行者優先を守らない車に罰金を科して取り締まっている警官に向かって、こう怒鳴る事ができるのは、一種快感であった。
いくら警察とは言え、警官も人間、時には間違いもあるし、中には不良も混じっている。警察の不祥事が取り沙汰されるのは日本でも良くあるが、フランスでも、モナコでも例外ではない。先にモナコ警察の警官が、詐欺事件で何人も逮捕されたのに、モナコではいっさい公表されなかった。発表したのは、フランスニースの新聞だった。
3年ほど前に、ボクは警察からの依頼で警察に協力した事があるが、いまだにボクの気持ちの晴れない一件が残っている。事件自体は大したことがないし、ボクはプロの通訳でもないので守秘義務も無いと思う。
ことの成り行きは次の通りだ。
2002年2月の、ある日曜日の午後6時半、ボクの携帯電話が鳴って、相手は<モナコ警察だ> と言った。ヘロインを持った容疑者を捕まえたのだが、日本語がわかる人がいないので通訳して欲しい、と依頼されたのだった
家族と過ごそうと思っていた宵を返上して、ボクは気前良く引き受けると、午後7時に警察に行った。
捕まった男は、手錠をかけられて、手錠の片側は取調室の壁から出た金具に馬のように繋がれていた。暴力的で危ないので近寄らないよう言われた。 (これではまるで猛獣だ)
男は在日朝鮮人で朝鮮のパスポートを持っていたので、警察が朝鮮語のわかる人を用意した。しかし彼は日本語しか話さないことがわかったので、急遽ボクのところに連絡してきたのだった。
通訳しながら調書を取り始めると、男は3日前にモナコに来て、カジノに入り浸り、その日の深夜2時に警官に検問されて暴れ、2人の警官に傷を負わせたというものだった。数グラムの白い粉を持っていて、化学分析の結果ヘロインだとわかった。 その日は結局夜遅くまで調書を取るので通訳して、家に帰ったのは深夜11時だった。
翌日も、男を検事に会わせないとならないのでボクに来てくれという。約束があったので断ると、男が調書に署名するのを拒否したので、調書が確かにこの男のものだと証明するために、ボクに来てくれないと困る、という。
通訳のお礼の時間給は悪くないから、とも言う。
仕方ない、刑事が困っているのだからと、自分の約束を延ばして、翌朝、警察に行った。裁判所は王宮のある地区にあり、下の警察署から緊急サイレンを鳴らしながら走る覆面パトカーで、朝の渋滞の道を飛ばすのは快適だった。
その日も検事のために2時間ほど通訳して、書類を一枚渡された。
<この紙に署名して裁判所に送れば、通訳費を請求できる>
別にお金が欲しくてではないが、翌日には言われた通り、事務的に書類を裁判所に送った――――。 しかるに、梨のつぶてでなんの音沙汰もない。
それから2年後、別の件で警察に行く事があり、その時の刑事を呼んでもらって、通訳費用についてどうなっているか聞いた。刑事もボクのことを覚えていて、ボクの目の前で裁判所に電話してくれた。住所氏名、内容を確認して裁判所への電話を切ると、<もうすぐ払われるから> と言った。
それからまた1年。 3年半待った今でも、ボクの通訳費は払われないままだ。
モナコ警察にだまされた。
犬のおまわりさん
モナコの国について語るとき、安全と警察について触れなければ片手落ちだろう。モナコの町を歩くといたるところに警官がいる。
うちの子供と一緒に車に乗っていて警官の姿が見えると、<あ、 ワンワンがいる。 > と5歳の子供がいう。
これではまるで、<警察は国家権力の犬である>と、親が子供に教えているように思われるかもしれないが、そうではない。 “迷子の迷子の子猫ちゃん”の歌を子供が知っているからに過ぎない。
知り合いのモナコの警官に聞くと、モナコで拳銃を抜くような事件があったのは20年も前で、検問を突破しようとした車があって、あわてて拳銃を抜こうとした警官が、まだホルダーにはいっているのに引き金をひいて自分の足を撃ってしまった、という事件があったそうだ。
また殺人事件などは、彼が知っている限りなくて、そのかわり自殺事件が多いのだそうだ。 モナコで派手に生活していた人が、突然破産したりすると自殺するのではなかろうかと、これは僕の想像だ。
運転中に携帯電話を使ってはならないという法律もあって、いたるところにいる警官が見張っている。これは現行犯でないと捕まえられないとの法律があるものの、実際に警官がやっていることは、電話しながら運転している車を見つけると、トランシーバーでその先の警官に連絡して、そこで車を止めて違反を切るのである。
あるとき、運転しながら、車の中にあったカセットテープを耳にあてて、警官の前を通ったことがある。警官は、眼の前を耳に何か当てながら運転して行く僕を見ると、トランシーバーに向かってなにやらしゃべりだした。
しめしめ、この先で警官に止められたら、
<電話?? 携帯電話なら電源を切ってあります>
と、とぼけて見ようと思った。しかし、いつもならいるはずのその先の交差点に警官はおらず、残念、なにごとも起こらなかった。
モナコの横断歩道を横断しようとする人がいる時には、車は停車して歩行者に道を譲らなくてはならない、という法律があって、これはフランスでも同じなのだが、フランスではまったく守られていない。フランスで一歩踏み出した途端に、車に轢かれるのが落ちである。
しかしモナコでは、かなりこの法律が守られている。理由は、モナコの警官が遠慮なく違反切符を切るからで、この習慣を知らないフランス車やイタリア車 がよく警官に罰金のチケットを切られている。
いかにもモナコ人という風な歩行者が、横断歩道を渡ろうとして、近くに警官がいるのを知りながら、突進してくる車を急停車させるのは、モナコスポーツとでもいうべき一種の卑屈な快感になっている。
フランスの警察も今年はずいぶんがんばっている。
フランスでは、今年になってから交通事故の死者数が 29.9%も減っている。 その理由は、フランス各地でレーダーによる速度取締りを始めたからである。
日本なら制限速度の10kmオーバーは大目にみてくれるところだが、こちらでは、1Kmの速度出しすぎで写真を撮られるのである。
罰金90ユーロが嫌でスピードを落とすのは、交通安全を願ってというより、単に ケチ だからである。
しかし、国のレーダーによる収入は、1100万ユーロ(15億円)もあるという。その収入を見越した運営になっている。これは警察ビジネスだとの批判もある。
レーダー設置の式典に急ぐ政治家がレーダーの写真に写っていたり、機械の故障で、80歳のジイさんが200kmでぶっ飛ばしていたことになっていたりと、話題には事欠かない。
日本のレーダーは隠れていかにもこっそりと仕掛けられているが、フランスではレーダーがある場所の手前に、かならず“レーダーによる取締りあり”、と標識が出ている。なんでも標識がなくて取り締まって、それが無効になった裁判があるらしい。
しかしその仕掛けてあるやり方は、まさにフランス人の性格が表れているようだ。
僕も2−3度レーダーで写真を取られたことがある。ニースからモナコに帰る高速のトンネルの中で、いままでずっと90km制限だったところが、特に危険という訳でもないのに、急に70km制限になる。まさにそのトンネルのなかにカメラがあったのだ。おまけにこの制限速度は日によって変わって、回転 式の標識が何キロの制限になっているかその度に見ていないとならない。
また、モナコからパリまで高速道路を走ると、時々レーダーありの標識に出くわす。ちゃんと速度を落として、カメラの前を無事に通りすぎて、さあ今まで通りの速度に戻した、と思ったとたんに、また別のカメラがあって写真を撮られる。ひどいところでは1kmおきに3台も連続して置いてあるのを見た。
僕の車はモナコナンバーで、フランスで写真を撮られても駐車違反をしても、モナコまで罰金を払えといって来たことがない、せめてもの救いである。
数週間前にパリの北の郊外で、数人の警官が麻薬をやったり、売春婦と関係した後なぐったりという不祥事があった。
パリにも警官の知り合いが何人かいる。僕の知り合いはそこまで悪くはないが、スピード違反など平気なものだ。僕と一緒に車に乗っているとき、一方通行の道をかなりの距離を逆行さえしたことがある。 < 俺はフランスだあ! >、と訳のわからぬことを口走っていた。
その警官が最近の事件について教えてくれた。アメリカ製の何とかという新しい化学薬品は、ほんの微量を体に入れただけで意識を無くしてしまうのだそうだ。
シャンゼリゼで一人歩きの美人女性が狙われるのだ。体がぶつかったふりをして小型の注射器でチクと刺す。女性は200mも歩くと意識が切れて、さも 一緒に歩いているかのように見せかけて、男が助けて車に乗せるーーーーー。
今年にはいってもう何人も被害に遭っているのだそうだ。
警官たちは、<困ってしまって ワンワン ワワ〜ン ワンワンワン>
モナコでテロ? 最近の事件2つ。
2004年5月30日の朝2時。モナコのスタード・ルイIIのホールHの出口付近で爆発がありました。
スタードの警備員は、最初「花火かと思った」とのこと。
確かにモナコでは、パーティが盛りになると、寝ている人のことも構わず、真夜中によく花火が上がるのです。しかし花火は30分は続くものの、この爆発は一発きりでした。
現場に駆けつけた警官が見たものは、紛れもない爆弾事件でした。
爆発したのは、1kgから2kgの爆発物で、詳しい分析はマルセーユからフランスの専門家が来て担当しています。
夜中だったこともあり、被害は少なく、建物の入り口付近の天井、窓ガラスが割れたくらいで済みました。隣のASEPTAという会社の入った建物も一部破壊されました。
犯行声明は出ず、誰が何の目的でやったか、いまだに分かっていません。
プロかアマかの判断も出ていません。
想像できる可能性が2つあります。
- モナコのフットボールチームへの妬み。
- ここに事務所のある会社に対する嫌がらせ。
モナコ警察では、事務所の入っていた会社の責任者を呼んで、事情を聴いています。
お隣、フランスでは、昨年の7月に、ニースの税務署が爆破されたばかりです。
安全を売り物にする国モナコでは、700年前にモナコ始まって以来の事件だとかで、モナコ中の人が鳩首してこの話をしています。
しかし、知る人ぞ知る、昨年モンテカルロラリーの最中に、ホテルエルミタージュの前で、発火装置のついていない爆発物の詰まったスーツケースが、匿名の電話で発見されていたのです。
今回の事件、モナコに対する嫌がらせなら、王宮かカジノの辺を選ぶだろうし、アルカイダの犯行なら、同時にモナコ各所で爆発させるだろうし、火薬の量も100倍は使うだろう。
2つ目の事件は、ヘリコプターの墜落です。
6月8日の11時58分、5人乗りのヘリコプターがカップフェラの沖1.2海里のところで墜落し、ヘリコプターは300mの海底に沈んでしまいました。
モナコのヘリコプター会社、ヘリエアーモナコの、ニースとモナコの間を結ぶ定期便で、パイロットの名前は、アランカルノ。他の4人の乗客も全員死亡しました。そのうち女性一人の死体が回収されました。
天候は、モナコ晴れの快晴で、事故の原因はわかっていません。
目撃者の話では、「 突然、石が落ちるようにヘリコプターが落ちた」 とのことです。
ヘリコプターの事故は 1986年にも起きています。モナコーカンヌ、マンドリウを結ぶ便で、消火用の飛行機を避けようとして墜落しました。4人が死亡し、10年間にわたる裁判の後にも、この時の事情ははっきりしていません。
なんか、よく分からないままに事件が忘れられていくようで、やっぱりモナコは平和なのでしょうか。
イラク・アメリカ2
日本から家族が遊びに来たときに、懐かしいだろうからと日本語の新聞を持ってきてくれた。2004年4月10日付けの日本経済新聞と、地元岡山の山陽新聞だ。
両新聞ともイラクで日本人が人質にされた事件が第一面のトップである。
そして一面の下のほうに、朝日新聞で言えば<天声人語>にあたる部分の、短い随想風の欄を読んで驚いてしまった。
日本経済新聞では<春秋> という名前の欄である。
<荒廃した住民の助けになりたい、戦争の不条理や現地の声を届けたい>
<人道主義や正義感に導かれてイラクの人の役に立とうと、自らの意思で現地入りした若者3人を武装した過激派集団が人質にした。卑劣というほかない>
<若者の志をもてあそぶテロの脅しに屈してはならない>
僕は、きっとこの後に、<こうした言葉だけの議論では国際政治は語れない> と続くと思いながら読んだら、――― 何もない。これがこの文章の結論なのだ。
山陽新聞はというと、題名が <滴一滴>。 岡山文庫という本に、原子物理学の父仁科芳雄 が加わったという話である。
博士の業績について語った後、
<戦争は犯罪であり、心がけるべきは平和である。道義に立脚した外交を貫かなければならぬ> と博士の言葉を引いて、締めくくりは、
<イラク情勢が混迷を深める。博士が期待したようなまっすぐな道をあゆんでいるだろうか>
?????
イラクで戦争を始めて住民の生活を荒廃させたのは誰だったのか。戦争の不条理は現地よりも国際政治になかったか。人道主義が国によって価値が異なり、キリスト教の正義とイスラム教の正義が相容れないこともあるとは考えないのか。戦争において卑劣という言葉に意味があるのか。現地に行った人たちの本当の意思はなんだったのか。
こうしたことに一言も言及しないで、感情だけの議論は意味がないのではないか。
僕は日本を離れて長いのをひしひしと感じざるを得なかった。
個人の日記を公開しているのではない、一般の人が読む日本の新聞に、随想風とは言え、人道主義だの卑劣だのという言葉で済ませることに、あきれると同時に暗澹としてくる。
この戦争を始めた国アメリカは、<自由と平等> <アメリカンドリーム>などという言葉で、うまく宣伝しているが、実際にやっていることはどうだろう。
スーダンやハイチ、ニカラグアの攻撃、拷問禁止条約の議定書の拒否、女性差別撤廃条約の拒否、京都議定書の拒否、国際刑事裁判所設置条約への署名撤回、などなど。
国連の常任理事国の兵器輸出が世界の95%を占めることだけをとっても、国連が世界の中立的な平和機関などとは、夢物語としかいえない。
しかしそれにしても、アメリカは国連を無視して戦争に走り、状況が悪くなると国連に助けを求める。アメリカは国連の国際分担金を払っていない、にもかかわらず、である。
イラクの大量破壊兵器を非難する前に、世界一大量にあるアメリカの核兵器はなぜ議論しないのか。イラクのクェート進行を非難するのに、アメリカのハイチやインドシナ、キューバでやってきたことは非難されないのか。
アフガニスタンやイラクをテロ国家というときに、ハーグ国際司法裁判所が国際テロで、唯一有罪を宣告した国がアメリカであるという事実はどうするのか。
自由平等とは、アメリカが好き勝手なことをする自由と、アメリカにとって都合のよい時と場合だけの平等としか言いようがない。
同じ日にフランスのラジオ放送で、フランスの首相が演説してイラクのことを語っている。
<イラクに平和は簡単には訪れないだろう。イラクにいる全フランス人に、イラクからの撤退を勧告する>
フランスはイラクに核の技術を提供して、おいしい利益を受けた国である。いまさらイラクが核兵器を開発していると非難できる立場にはない。手を引いて様子を見るのは、いかにも大人の判断である。
そして日本は。
第二次世界大戦に敗れて、アメリカにおんぶに抱っこで今まで来た事は、だれにも否定できない。アメリカの独善的な政策であっても、それにうまく乗ってこられたのである。
今、日本がイラクに軍隊(イラクの誰が自衛隊と軍隊の違いがわかるだろう)を派兵したということは、アメリカ陣営についていることを世界に公言しているのである。
イラクで日本人がアメリカ人のように敵視されても当たり前の話である。
<テロ国家、ならずもの国家のアメリカ> <悪の枢軸国 日本 >なる図式を描いている人もいるのだと、多少の想像力があれば推測できる。
<第2次世界大戦が終わった時、日本は負けたのではない。日本は滅んだのだ。>
こう言ったのが誰だったのか、思い出せないでいる。
今夜のおかずはシチューです ?
うちの娘のセシルももう5歳、来年の6月で幼稚園を終わると、新学期9月からは小学生になります。
僕が子供だった頃、入学式で母親が泣いていて、<どうして泣いているのか> と僕が尋ねたら、<目にごみが入ったから> と母が答えたのを今でもよく覚えています。 うちの子供がもうそんな年齢になるのかと思うと、僕が何気なく言ったことなども、子供心に記憶されているのだろうと恐ろしくなります。
しかし、妻の心配は他にあるのです。
はたして家で日本語しか教えていないうちの子供が、いきなり教室でフランス語の授業を受けてついていけるか、ということなのです。
知り合いの、小学生の子供を持つ母親に、小学校の授業の内容のことなどを聞くと、この不安はもっと大きくなるのです。
小学校に行くと、算数の問題で、次のような問題が出るのだそうです。
< 今日の夕飯のおかずはシチューです。買い物に行ってジャガイモ、にんじん、玉ねぎ、りんごの単価と個数をかけて合計すると、 残念ながら バツ、 不正解 です。 正解は、 シチューにりんごは入れないから、りんごを除いた材料の合計を出さないとならないのです。
ジャガイモ 1個 1ユーロ のものを5個、
にんじん 一本 0.5 ユーロ の物を3本。
玉ねぎ 1個 1ユーロ のものを 2個。
りんご 1個 2ユーロ のものを 2 個 を買いました。
さて 今日のシチューの材料は全部でいくらかかったでしょうか? >
<うちのシチューにはりんごもいれるぞ> 、というアフリカ出身の子供がいてダメ。<うちではニンジンが嫌いなのでニンジンも入れません>、という子供がいても、みんなバツ なのです。
先生が思っているように答えられる生徒だけが正解なのです。
そんな話を、学校の算数の先生をしているフランス人の友人と話していたら、
< その通り、算数の問題でも常識というものが考えられない生徒はだめなのだ > とのこと。
ちなみにその先生は、次のような算数の問題を、実際に試験で出すと言うではありませんか。
問1 < 3個ずつ玉がはいった箱が6箱ある。玉は全部で何個ある? >問1の 正解は 18個。 問2 は 55ユーロ 。 問3で、21歳と答える生徒が少なからずいる中で、 正解は < 船長の歳は わからない > なのだそうだ。
問2 < 5 ユーロ ずつ 持った人が 11人いる、持ち金の合計は? >
問3 < マストが3本ある船が7隻 ある。船長の年齢は ? >
これは 罠 だ。 僕たち夫婦は、暗澹とした気持ちで顔を見合わせると、 < 小学校からこうした問題で鍛えられれば、だからフランス人はひねくれた性格になるのだ >、と 妙に納得したものでした。
いまから40年も前のことを思い出します。
僕が 岡山の総社小学校の生徒だった時に、理科の先生が、
< 大陸の土で海を全部埋め尽くすことができるでしょうか? >
と生徒に問題を出したことがありました。 }< できません。地球の陸地と海の面 積の比 が 3対7で海の方が広いから >
と答えた生徒がいて、当然のように正解でした。
この先生、大陸の土を海に入れてならしてしまえば、行き場の無い水が地球全面 を覆う、ということは考えなかったのでしょうか。
優等生の生徒も、問題を出した先生も罠にはまって気がつかないのです。
それはさておき、うちの娘は、モナコの学校で、周りは親の代からこうしたひねくれた問題で鍛えられている子供たちと一緒になって、こんなフランス的な算数の問題を出されて、一体 どうやっていくのでしょうか。
シチューの問題が出されたら、うちの子供なら
< 肉と牛乳を買っていないからシチューはできません> と言うかもしれません。もちろんそれもバツです。
それとも、親が心配するまでもなく、子供は素早く順応していくのでしょうか。
なにが常識でなにが非常識か、どんどん正解の無くなっていく世の中で、先生の顔をうかがわないで、せめて論理的な発想のできる子供になってほしいと、親の悩みは尽きないのです。
2004年4月9日
追)「後日、数学の先生より感想があって、シチューの質問はやはりおかしいと思う、とのことでした。 僕の早とちりでした。」
モナコで裁判
裁判所から呼び出しが来て、何だなんだとビックリしていたら、数年前にイタリア人の詐欺の被害にあい、刑事事件の裁判があるというお知らせでした。
モナコで初めて裁判の模様を見る機会がありました。もちろん僕は被害者であって被告ではありません。
詐欺にあったのは1998年ですから今から6年前のこと。最初依頼していたモナコの弁護士も、何の進展もないのにお金の請求ばかりなので途中でやめました。遅々として進まない裁判にしびれを切らせて裁判所に電話したら、リシェという判事で、何の情報もくれないばかりか、言われた言葉がいまだに腑に落ちないのです。その判事は、いかにも僕が取るに足らないと言わんばかりに、 Vous n'etes que la victime. < あなたは被害者でしかない > と言ったのです。
犯罪者は法律に乗っ取って裁くのでしょうが、では何のための法律かといえば、社会の秩序を守り被害者を救済する為ではないのでしょうか。それとも、単にだまされる被害者が悪いのでしょうか。
さて当日、呼び出し状の指定の時刻朝9時に裁判所に行くと、黒服に白いよだれ掛けの弁護士や一般 の人が20人近くもいて時計を気にしているではありませんか。さては僕が場所を間違えたかと思い気や、その法廷に間違いありません。
あのイタリア人はこんなにたくさんの人をだましていた大物だったのかと驚きましたが、そうでもありませんでした。
定刻を30分も過ぎて裁判が始まってみると、いくつかの事件を次から次に連続して裁いていくのですが、その関係者がみんなそこで待っていたのです。
ぞろぞろと皆で法廷に入っていくと、正面の壁に、ひげ面の裸の男が釘付けにされた血まみれの大きな像が飾ってあってビックリ。アサハラショーコーかと思ったらそうではなく、言わずと知れたキリストの磔刑像でした。
像の中に<INRI> と書いてあるのは、陽理(成文化された法律)に対する陰理(インリ)で、陰で人を操る非理性的な感情のことである。 (これは嘘 )
政教分離、三権分立しか頭にない僕は、キリスト像を見てビックリ。この法廷ではキリスト教の精神で人を裁くと言うことなのでしょうか。もし被告がイスラム教徒や仏教徒だったら、キリスト教徒に比べて不利になることはないのでしょうか。キリスト教の教えと現在の法律が矛盾していることだってあるだろうに、どうもわからん。
しばらくして入って来た判事は、映画アマデウスに出てきたサリエリそっくりの眼光鋭い男で、その両側に女性の判事が2人ついて、右の一人は映画 ローマの休日 に出てきたオードリー ヘップバーンそっくりの美人でした。
検事は40過ぎのオバサン風女性で、被告の極悪非道ぶりを次々に容赦なく糾弾する姿に、仕事が終わった後は旦那を激しく糾弾しているに違いないと思わせる迫力がありました。
さて、この日の裁判は全部で14件、お陰でモナコで起きている小事件の一端を知ることができました。
モナコの裁判所の内幕を暴露した< モナコの裁判官 >という本を読んでいた僕は、いったいどんな事件があるのだろうと興味津々だったのです、が
最初はイギリス人の女が飲酒運転で、血中のアルコール濃度が1グラムでバイクを運転していたのだそうだ。さすがイギリス人は酒に強い。
次はやはりニースのパン屋の男が無免許のうえ飲酒で、血中濃度 1.9グラム、これでは完全な泥酔ではないですか。
その他、フランス人同志の喧嘩、スリランカ人の万引き、ハッシシを吸った若者3人組、サッカーの試合観戦中の暴力、偽造カードで買い物をしようとしたアラブ人など、どれもこれも大したことのない犯罪ばかり。
一番傑作だったのは、モナコグランプリの最中に、交通整理する警官の指示に従わず前進して、その警官の右足を車のタイヤで踏んでしまった男でした。なるほど権威を振りかざす町の警官の偉そうな態度が頭にくるのは、本当に無理もないことで、僕だって時々、警官を車でひいてしまいそうになるので、あわてて女房が止めてくれるのです。
しかし本当に警官の足を踏んでしまった人がいるとは! またこの警官はタイヤの前から足を引っ込めることを考え付かなかったのでしょうか? 双方の弁護士が話術をつくして弁護している間、僕はひとりでニコニコしていました。
この日の判決のなかで、僕が被害者の詐欺事件が一番重くて、二人組の一人に15か月、もう一人に18か月の猶予なしの懲役でした。 6年前の事件の判決がやっと出ました。
しかしこのイタリア人は、4年前に逮捕されて留置所に一月半いて、その後すぐにモナコから追放されてとっくに居なくなっているのです。
どうせ居ないのなら、どんな判決が出ても関係ないではありませんか。 モナコにはモナコ人より外国から来た外人居住者が多いので、問題があるとすぐにモナコから追い出すのだ、と知り合いが言っていました。 < 虫食い豆は他所に捨てる> のだとか。
2004年01月19日
金持ちの晴れ舞台、モナコ
僕がやっているバラの花の店は、モナコでも観光局の近く、モンテカルロの中心地にあって、前の通りはモナコを横切るメインストリートです。
店の入っているビルは、管理人が日夜番をしていて、それなりに高級なビルで地上階は銀行にカフェ、不動産屋に散髪屋などが入っていて、日本で言う2階以上は普通 に人が住むアパルトマンになっています。
当然このアパルトマンの家賃も比較的 高級で、住んでいる人もそれなりの収入のある人たちです。
さて、先日店から地下の共同のごみ捨て場に行こうとして、普段なら使うエレベータを使わないで、階段で降りていった時のこと。
地下2階の踊り場部分に、ダンボール箱に入った引越し荷物が山積みになっているのを見つけました。
共用の場所に個人のものを置くとはけしからん、これでは泥棒にあっても文句は言えない、などと思いながら横を通 りすぎたのでした。
そして後で管理人に聞いてビックリ。< 欲しいものがあれば持っていけ> 。この荷物はすべてごみだったのです。
上のアパルトマンの一つで賃貸した人が荷物もそのままに居なくなったので、困った大家がまとめてそこに置いたのでした。
ごみといっても、小型の家具にランプ、電子ピアノや、スキー靴にステッキ、タイプライターに大部の本、設計図らしい丸められた大判の紙、など、捨てるにはもったいないようなものばかり。
どうもこの人は車関係の仕事をしていたようで、多数のオートモビルショーのカタログ、フェラリやブガッティの専門的な本、車のハンドルやアルミニウムの部品、丸めた紙もどうも車の部品の設計図のようです。
アパートの荷物をそのままに居なくなった人の姿が目に浮かぶ様ではありませんか。 モンテカルロの一等地にアパルトマンを借りた、F1関係の仕事をする独身男。 スポーツの好きな、しかし見栄っ張りのプレイボーイの姿が。
ビジネスが上向いて小金を儲けて、押しの利くモンテカルロに住所を定め、真っ赤なフェラリを買うと、羽振りのいい生活をして、彼女の一人や二人できていたものの、急に仕事が思わしくなくなって大慌てで夜逃げ同然で姿をくらました35歳の男、といったイメージです。
あるいは派手な生活に慣れすぎて、借金を重ねたあげくどうにも首が回らなくなって、夜逃げしたのでしょうか。
モナコに住んで14年、今までに僕のまわりでも大急ぎでモナコから出ていった人を何人も見ています。
BMWを乗り回し、応接室にビリヤードを置き、クルーザーまであったのに一週間のうちに居なくなったレバノン人。
ベントレーにヨット、倉庫代わりに別のアパートを借りなければならないほどの骨董品の収集家だったアメリカ人。
高級アパートに住み、自分の馬までもっていた女好きのドイツ男。
ロールスロイスに乗って、美形のフランス人秘書を雇い、嫁の家族までモナコに呼んで住ませていたのに、最後は客の金まで使い込んだ男。
一生かかっても使いきれない財産を持っている人を除いて、贅沢な生活が維持できなくなった日から、その人はモナコから消えていなくなってしまうのです。
ほそぼそとモナコの安いアパートで生きるよりは、他で生きた方が物価も安く、目の前を行く金持ち連中への劣等感を感じなくて済むので、潔くモナコを捨てて出ていってしまうのです。
モナコの街を歩いていて目につくのはフェラリにロールス、ポルシェにハレーの単車、宝石に毛皮で高級レストランに通 う人たち、高級ブティックに高級アパルトマンーーーーーー。
モナコに居る人は目についても、モナコを去っていった人は目にすることができない、この単純な理由でモナコに居る人はみんな金持ちなのです。 モナコは金持ちの晴れ舞台、衣装を脱ぐのは裏方のモナコから外れた国なのです。
そのモナコに長く住んでいる僕は? 金持ちでない代わりに急いで夜逃げする必要もない、暗闇から舞台に目をこらす一観客、といったところです。
モナコには高級車の中古の特殊なマーケットがあると知り合いの中古屋がいっていました。ほとんど距離を走っていないポルシェやベンツの大型車の中古が格安で手に入るというのです。
今度僕がモナコで商売を変える時には、緊急引越屋(別名 夜逃げふくろう便)か、中古品のリサイクルショップあたりがいいのではないか、と思っています。2003年11月29日
バラとラヴェンダーの生活
うちの4歳になる娘が、ヴァカンス明けの9月から幼稚園に行き始めて、今年で2年目です。
去年、幼稚園に行き始めたころは、周囲のほかの幼稚園児にイタリア人の子供が多いせいか、家に帰って来ると、< プレゴ > だの <クエスト > だのイタリア語の単語を習って来るので、一時はどうなる事かと心配していました。
しかし2年目になると、家では日本語、外ではフランス語。 幼稚園ではイタリア語を話したり、英語を話したりする友達がいる、と子供なりに分かってきたようです。
言葉があまり混ざり合わない様にと、我が家では家に居る時はなるべく日本語で話すようにしています。
< パパ、ママ > も、自分が言われると寒気が走るので、家では < お父ちゃん、お母ちゃん > と言うように教えています。
( せめて <お父様、お母様> にしてほしいと言う声もありますが。)
もともと私は外来語があまり好きではなく、英語の外来語を使うときは相手が英語の分かる人の場合に限っています。フランス語の場合も、相手がフランス語が分からないのに思わず使ったりすると、まるで < ミーはおフランスざんす > の世界になるので気を付けています。
日本の友人と話していたら、やたら外来語が出てくるので、野暮を承知で会話を遮って、<その言葉の意味は ?> と聞くと、たいてい返ってくる返事はあいまいで、もとの語源をちゃんと押さえている訳ではないようです。
日本に帰ってFMラジオを聞いたりすると、いきなり日本語が英語になったり、かかる曲が英語ばかりだったりで戸惑う事があります。 (ワタシの名前は浦島‐‐)
フランスでは、政府がフランス語を守ろうとして、英語などからの外来語をフランス語に翻訳して国民に押し付けています。ウォークマンは バラダー、イヤホンはエクターなどです。フランスのラジオでは、外国語の歌を放送するのに制限があり、全部の歌の何%以上はフランス語の曲でないとならないなどと決めています。 アラブ系の有名歌手が、あえてフランス語で曲を作って、この法律に引っかからない様にしていたりします。
さて、ある日モナコで暮らす我が家で、外来語はしゃべったらあかんぞ、と家族に言い渡した事があります。テレビは電波受像機、リモコンは遠隔操作機、ベースボールは野球、サッカーは蹴球、ハンドルは方向舵、シートベルトは安全帯、ウインカーは点滅方向指示器、と言った具合です。
しかし、会話が10分も続くと、CDは小型録音盤、ステレオは忠実音楽再生機、コンピュータは電子頭脳、マウスは鼠型指示器、フロッピーは??? 。 これでは滑らかな会話どころではなく、どうも不自然な衒学趣味に陥ってしまうようで、それ以上の会話は不可能でした。
日本語に根づいてしっかり日本語になってしまった外来語もあるのです。 もともと、カタカナを漢字に直してみたところで漢字自体中国の言葉なので、外来語の漢字をやめて大和言葉で現代を生き抜く方が無理というものです。
しかし、外国に生きる日本人家庭で、せめてうちの子供だけはちゃんとした日本語を話して欲しい、と願うのは親として当然の気持ちでしょう。
先日、4歳の娘が言った言葉に、バラの花を商うわが家の言語教育の成果 を見たようで、私たち夫婦は顔を見合わせてしまいました。
< ワタシの おな○ は バラの匂い、 ワタシのうん○はラヴェンダーの匂い >
と、トイレから出てくるなりちゃんとした日本語で 娘が言ったのでした。
2003年10月8日
セシルの次は ポッキー ??
うちの娘もすでに4歳、幼稚園から毎日帰ってきては、仲間の子供たちの話を聞かせてくれます。ルカにセザー、ケリーにヴァレンティンヌなどの話題です。
うちの娘の名前は セシル。
今日はセシルという名前の由来についてお話しましょう。
4年前、子供の出産が近づいて、超音波の検査で女の子だという事は判っていても、なかなか名前が決らず夫婦であれこれ考えていました。
最初の名前の候補は、キラム でした。
女房に娘の名前に 村木 キラム はどうだろうと言いますと、
<珍しいわね、でも響きのいい名前だわ> と言い、それに決りかけました。( が、実際は決っていない)
< で、その由来と意味は??> と女房に聞かれた時、もし 僕が次のように説明していたとしたらどうでしょう。
僕の曾ジイさんが、二十歳そこそこで戦争のためロシアに行った時、占領した村の娘と恋に落ちた。娘の名前は <キラムスカヤ> 。色の白く彫りの深い村で一番の美人だった。しかし そんな恋が実るほど日本帝国軍は甘くない。
思い悩んだ二人。許されぬ恋を成就させようと、曾ジイさんは軍を脱走し、キラムスカヤと手に手を取ってタイガの彼方に駆け落ちしたのであった。
それ以来、村木家には 白系ロシアの血が混ざっているーーーーー、と。
女房は村木家の秘密を打ち明けられて、ポッと頬を染めると、きっとこの子はロシア人のように白い子だわ、などと言いながら 名前をキラム と決めた事でしょう。
しかしうちの娘の名はキラムではありません。
由来は?? と聞かれた時、僕は正直にも、
< 上から読んでも ムラキ キラム、 下から読んでも ムラキ キラム! >
と言ってしまったので、その瞬間に ボツ にされてしまったのです。
名前が決らないまま、僕がイタリアへの出張をしている間に、女房はすでに女の子を出産してしまいました。 キラムが駄目なら、ムラキ カザン (村木火山)はどうだろうと言いました。
これはかなり本気で良い名前だと思っていたのですが、岡山の母親に、
< 女の子にそれだけは 後生止めてくれ、> と泣き付かれ、あきらめました。
女の子はすでに産まれて3日たっても未だ名前が無いと、病院の看護婦さんに責められて、結局 女房の決めた <セシル> になりました。
さてその由来はーー。 女房は何故か昔から山口百恵のファンで、今でも暇があるとCDなど聞いています。モナコからニースを超えてサンポールドヴァンスの村に行くと、古い井戸がありますが、そこに行くたびに、<ここで30年前に 山口百恵と三浦トモカズがCMを撮ったのよ> と説明してくれます。まだうら若い百恵とトモカズが、手に手を取って井戸の周りをダンスするのです。その時に宣伝していたのが、グリコ セシル チョコレート。
なんとセシルの由来はチョコレートだったのです。(これで娘の色が黒い理由が分かりました。)
そんな軽薄な由来の名前では娘がかわいそうだ、と反対しなかった僕はやはり度量 の広い人間だからでしょう。
これでは、次に男の子が産まれたら、ムラキ ポッキー になってしまうと危うんだものですが、幸いにも 山口百恵 はポッキーチョコの宣伝をしていなかったようです。( メデタシ メデタシ )
2003年10月8日
マダム お手伝いしましょう
うちの子供は現在(2003年8月) 4歳の娘と2歳の息子です。もう一人で歩ける年なので、腕にいつも抱えていなければならない赤ん坊と違って、歩け といえば歩いてくれる年齢になりました。
しかしまだまだ旅行は大変です。
モナコに住んでいて、やはり年に一度二度は日本に帰国することもあり、そんな時にいつも夫婦と子供一緒と言うわけにはいきません。一緒に日本に帰っても、日本からこちらに来る時には、先にぼくが帰っていて、あとから女房が2人の子連れで飛行機に乗らなければならない事もあります。
日本からニースへの直行便はまだないので、11,2時間の飛行機の後、さらにパリかフランクフルトかどこかで乗り換えて、ニースの空港に着きます。
飛行機が着く頃は皆ぐったり疲れて、さらに日本との時差があるので日本時間の深夜に到着したりします。
飛行機から降りる時に、子供たちは完全な熟睡状態です。 うちの女房は二人の眠る子供を両腕に抱えて、さらに日本から調達した食料やお菓子、日本語の本などの詰まったバッグを持ってターンテーブルの方へ行かなければなりません。
そこは外部の人間の入れない区域、ターンテーブルから出てくるのは、日本の米などの詰まったさらに重いスーツケースが2−3個あります。子供を置く場所もなく、眠る二人を抱えたままスーツケースをキャディに乗せるのは、考えるだに腕の痛くなる重労働です。
そんな時、かならず後ろから聞こえてくるのが、
< マダム お手伝いしましょう > の一言。
別に 女性がマドモワゼルでなくとも、 下心の片鱗もありえないオジサンが、親切にも手伝ってくれるのです。これは同じ状況で、毎回かならず同じ光景が繰り返される例外のない規則のようなものなのです。( だそうです。)
しかし 時には、モナコから日本に帰る時に妻と子2人 という事があります。ヨーロッパのどこかで乗り換えて、11,2時間の飛行機の後到着するのは、成田だったり関西国際空港だったりします。ターンテーブルの周囲の90%は日本人です。
その時に、眠る二人の幼子を抱えてスーツケースに手をのばす か弱い女性 ( うちの女房 ?)に、助けの手を延べる日本人は、皆無なのです。 逆に、あなたのことは認知していますよという印に、一歩下がって見ているのだそうです。
こうして、二人の幼子を抱えた日本女性は、お土産の詰まったスーツケースをキャディに乗せると、日本に到着した嬉しさと、周囲のみんなの優しい視線に、そっと頬の涙をぬ ぐうのです。
似たような話を聞いたのを思い出しました。 アメリカの ロサンジェルスで黒人の暴動があったときに、チャイナタウンの店は襲われなかったのに、日本人の経営するリトルTOKYOの店は襲われたそうです。チャイナの店を襲うと、周囲が一致団結してかえって袋叩きにあうのを知っていて襲わないのです。 略奪を受ける日本の店の周囲の日本人は、自分の店のシャッターを下ろして台風が過ぎるのを待つかのように、襲われる店を見ているだけなのだそうです。 この話で教訓を引き出す積もりは毛頭ありませんが、うちの女房の実体験でした。
2003年8月21日
モナコで引っ越し < 国境に愛はない>
今まで4年間住んでいたアパートから引っ越しました。
2年前に暖房水の水漏れがあって壁が落ちたりドアがゆがんだのを、本来は所有者の責任で直さなければならないはずなのに、何度いっても、所有者は何もしないのです。
モナコの法律の専門家の知り合いに相談してみたら、ここの所有者はモナコ人だから、何をしても無駄 だとのこと。
モナコの裁判所の民事事件でモナコ人が負けるのは珍しいことなのだそうです。
すべてがモナコ人を保護するようにできているこの国で、いかに正義だ法律だといっても通 用しないのです。( ここは地中海の北朝鮮か?)
このまま契約が切れるまでここにいても、家賃3月分の保証金はまず返ってこないだろうし、近所の工事の音でみんな参っていたので、
<水漏れの被害の工事は自分でするから契約が切れる前にアパートを出たい> と言うと、意外にも所有者から OK の返事。さっそくもっと広くて工事の音のしない(と思った)アパートを捜して、賃貸の契約をしたのでした。(きれいにして明け渡したのに、旧アパートの保証金は、一月過ぎても返って来ない!)
今度のアパートは、モナコの地図で見ても西北の端の端にあり、移ってみてビックリ、このアパートのすぐ横はフランスとの国境なのでした。
検問所もなにもない国境。テラスから左の方に手を伸ばせば、手の先はフランスにあるというアパートなのでした。
ガイドブックには、モナコの警察はなにか事件があると5分で国境を封鎖するとか書いてありますが、なんのことはない、アパートの前の細い路地は、国境の部分に警察の交番もなければ何にもない、近くの住民が犬を散歩させるのでその後が目に付く(鼻にもつく)なんという事もない普通 の裏道なのでした。
車の通りの多いモナコの真ん中を横切る大通りには警官がうようよ居ますが、そこから100m横にずれたこの裏道の国境に警官の姿を見た事が無いし、ここを封鎖しようとすると、警官もモナコの中心地から細い路地をやって来るしかないのです。先回りされずにフランスに逃げようと思えば簡単にできるのです。
さて、新しいアパートは丘の上にあり、8階のテラスからモナコの港や、王宮やカテドラルのあるロッシェも見渡せます。遠くはマントンからイタリアまで眺望があるので、目の前の風景は左半分がフランス、右半分がモナコという眺めです。
アパートのすぐ下は気を付けないとそこが国境とわからない道路ですが、その積もりで見ると、やはりフランスとモナコの違いが目に見えてきます。
モナコ側の建物は、最近建てたばかりの比較的高層のアパートが多いのに、フランス側の建物は、50年も前に建てられたような老朽化した一家屋風の建物です。
フランスの各建物にはパラボラアンテナや八木アンテナが立っていますが、モナコの建物にはアンテナが立っていません。法律で禁止されているからです。テレビを見たい人は、有料の有線のサーヴィスを契約する事になります。日本語の放送など、そのサーヴィスのないような場合に限ってパラボラアンテナをつける事を許可される事もあります。
街路灯も、フランス側は木の電信柱に電線を渡して灯っていますが、ちょうど国境のところに最後の電信柱があり、電線もそこで切れています。
モナコサイドは、鉄の街路灯で電線が地下に埋まっています。
道路の舗装が、フランス側は掘り返した跡ででこぼこなのに、モナコ側はきれいに舗装されています。
道に置かれたごみ箱が、モナコ側はなにもかも一緒ですが、フランス側は雑誌類、ガラス類、一般 ごみなどと細かく分かれてごみ箱の数が多く、身障者の駐車用スペースがそれで埋まっていたりします。モナコのごみは後で分別 しているのでしょうか?? ごみの最終捨て場所はフランス内なので、かまうことはない全部一緒に、ということなのでしょうか?
ちょうど国境のところにまたがるように車を停めたら、駐車禁止はフランスがやるのか、モナコがやるのか、一度実験してみようと思った事がありますが、両方からやられるに違いないので、やめました。
以上、モナコとフランスの国境は、ようく見ると分かる程度のものですが、 ここはやはりモナコだったと実感するのは、数日前に近所で始まった工事の音です。丘の固い岩盤を直系10数センチもある鉄杭を打ち込んで崩していく音が、3軒向こうから響いてきます。
モナコ政府が2002年に建築許可を降ろしたのは、たった2件しかありませんでしたが、なんとそのうちの1件が引越ししたアパートの近くだったのです。
工事、工事、またしても 工事。
そして目には見えないこの国境をはさんだモナコとフランスの家賃の違いは、ひしひしと迫ってきます。モナコサイドのアパートは2m先のフランス側のアパートの2−3倍はします。 引越しでアパートが広くなったとは言え、岡山の田舎で生まれ育ったぼくにとって理想的なスペースには程遠い住宅事情のモナコ。同じ金額で2倍から3倍の広さのアパート住めるのなら、これは大変な魅力です。
今日も、モナコの住宅の家賃の高さから逃れようと、テラスからフランス側の空間に手を伸ばしているぼくなのでした。
2003年8月21日
イタ公に フラ公
スイス人の知り合いと一緒に昼食を食べて、二人である事務所に入ろうとする。エレベータの前にフランス語を話す30過ぎの女性が二人いる。モナコでモナコ人はほんの一握りしかいないので、フランス語を話す人間は、まずフランス人である。
エレベータのドアを開けて女性二人が入った後、我々が入ろうとするとすかさず、<すぐにエレベータを送るわね >、と親切気に 言って、ドアを閉めてそのまま行ってしまった。十分なスペースがあるにもかかわらず、我々を残して、である。
< 信じられない >と言って、スイス人は、顔を紅潮させて怒っている。
まあまあ、と僕はなだめ役に回って彼の怒りを静めようとした。
< フランスに何年も住んでいると、これくらいで怒っていたらきりがない。>
モナコに来てまだ2年半のスイス人は、まだ怒りを納めきれなくて興奮している。
こんな事はお国 スイスでは考えられない失礼なこと、なのだそうだ。
数年前にモナコを去ったある日本人は、イタリア人やフランス人に騙されたり意地悪されて、イタリア人をイタ公、フランス人をフラ公と呼んで軽蔑していた。そんなに嫌ならフランス、モナコにいなければ良いじゃないかと思っていたら、それから間もなくモナコを去った。ある日本人の客のお金を、数千万円も使い込んでの末である。この客から見たら、イタ公どころではない、ジャポ公と 言いたいところであろう。
さて、エレベータ事件の日の午後、図らずも今度は ぼく自身がフラ公!と叫びたい心境に陥ってしまった。事の次第はこうである。
前の日にニースのギャラリーラファイエットの責任者と、アポイントを取っていたのだが、当日の約束の時間に行っても、本人はいないと告げられた。
そして今日、電話してみると本人が出て、約束なんか無かった、あなたのことは知らない、と言うのだ。
不慮の事故で来られないのではない、フランスの全国ストライキの為でもない、日時を間違えたのでもない、アポイントを手帳に書き漏らしたのでもない、そもそもあんたのことは知らない、約束なんか無かったと言い張るのだ。自分で責任者として名前を名乗ったことも、向こうの都合に合わせてその日の時間まで決めたアポイントだったのも、知らない、のである。
口があんぐり、アグリに開いたまま言葉を失ってしまった。
そのフランス人とは、ニースのギャラリーラファイエットの、4階の責任者カスタニエ氏である。
しかしこうした苦い経験は、フランスに住む限り誰にでもあるものだ。
うちの家内は、モナコの高速道路の入り口で、チケットを取ろうとして停車したところ、後ろの車が追突してきた。一方的に悪いのは明らかに後ろの車である。降りていって相手を見ると、失礼くらい言って謝るものと思いきや、< 悪いのは自分ではない、太陽が眩しかったのだ>と太陽のせいにしてきたと言う。<異邦人>も真っ青のこの言い訳、さすがフランスと言うしかない。
モナコに住む別の日本人は、着物をクリーニングに出したところ、色落ちして帰ってきたと言う。これはデリケートなので十分注意するようにと何度も念を押したのにもかかわらず、である。当然客としてクレームをつけたところ、店の人の言うには、< 一様に色が落ちているのだから、最初からこの色だったと思えばいいのよ!!>
またも 口があんぐりである。
そもそもフランス人は家庭でも学校でも、いかに自分の責任を他人の責任にすりかえるかの教育を、物心つく前から教え聞かせているのである。
< C'est pas ma faute . > (私のせいじゃない)が幼児が最初に口にするフランス語である。それに引き換え、日本人家庭の我が家では4歳になる娘に、<ごめんなさい> と言いなさい、と教育している。これでは子供が学校に行っても大人になっても、他のフランス人の傲慢さと自己主張の強さに太刀打ちできないのではないかと、危ぶまれる。
小話を2つ
(その1)神様がヨーロッパを創ったときに、フランスの国を最後に創った。フランスには山あり川あり、変化に富んだ海岸あり、なだらかな丘に美しい雪山のアルプスもある。
周囲のスペインやイタリアなどの国の人々が神様に文句を言う。<うちの国はこれほど美しくないのに、何故フランスだけこんなに美しいのか? >
神様は不平を押さえるようフランス人を創った。
(その2)パリは、8月が一番うつくしい。 フランス人が皆ヴァカンスに行っていないから。
我が家では、今年の夏は観光客の詰めかけるモナコから、人気のなくなったパリへ行ってゆっくりしよう、と話している。
2003年7月01日
真夜中の訪問者
真夜中に近い時間に、ドアのブザーが鳴る。テレビを見ていた僕は、誰だろうといぶかしく思いながらもソファーから腰を上げる。玄関にいく前に、台所から包丁を一丁取って、後ろ手に隠して持つと、ドアの取っ手に手をかける。
いくら安全なモナコだからと言っても、泥棒はいない訳ではないし、なにかあって警察をよんだところで、来るまでに十分はかかるだろう。包丁を隠し持ったのは、家族を守ろうと言う自分なりの責任感の現われである。ボクは今までに何回も詐欺にあったことがあるし、パリ郊外の一軒家に住んでいるときに、ユダヤ人の一家に家を乗っ取られて、乗っ取った家族の息子がそこで死んだりするという、日本で普通 に暮らしていては経験できないような事件も経験しているのである。
自分なりに相手の暴力から身を守ろうと合気道を始めたり、催涙ガスのボンベが車に入れてあるのも、そのような意識の発露である。
夜中にブザーが鳴ったのは実際にあった話で、来たのは消防士の格好をした男で、上のアパートの問題に絡んでうちに来たのであった。
しかし、もしこれが本当の泥棒だったらどうだろう。パリの知り合いの警官から、パリで実際にあった事件のことを聞いたのはついこの間だ。ある裕福な銀行家の家に男が4人で入り込んで、ダンナを殺して、60歳前の奥さんを後ろ手に縛ると、4人で輪姦し、さらに熱したアイロンで体中を焼いたとのことだった。これは顔のしわを伸ばす為ではなく、ユダヤ人差別 の、ある利権に絡んだ嫌がらせの事件だった。
もしうちに来たのが消防士でなくて、泥棒だったら。
ドアのノブを少し回したところで、いきなり外から強烈に蹴りを入れられて、ドヤドヤと入ってきたのは、拳銃を持った屈強な男とその妻と見られる女と4歳ほどの子供だった。包丁で反撃する間もなくボクは後ろ手に縛られてしまった。
奴等はうちにある金目の物(あまり無いが)を奪い、食料を全部食べ尽くして、一家そろってうちに住み込んでしまおうとしているではないか。
もしそうなったら、男が油断したすきに後ろから殴り付けたり、うちの娘が相手の子供を、何とかしてテラスから落そうとすることもあるだろう。
どちらかが死ぬまで、この不条理な戦いは続くだろう。最後には自分の死を覚悟しても、相手をやっつけるために反撃するのである。
2003年5月21日
イラク ―アメリカ
時の話題について語るなら、イラク アメリカについて書かないではいられないだろう。
基本的にボクは反アメリカであり、ゲリラやテロも弱者の戦争だと考えている。
しかしここに書くのは、ブッシュの顔が貧相なので嫌いだとか、英語に劣等感を持っているのでアメリカは苦手だ、くらいの個人的な感情論である。
ボクは日本人として、日本が、独自の文化や独自の国策を持った独立した一国であって欲しいと思っている。
今回のアメリカのイラク攻撃で、日本政府はそれを支持している。強いものには巻かれろと言うことか。日本がアメリカに追従するのであれば、日本はアメリカの51番目の州のようになれるならまだしも、へたをすれば植民地として利用し尽くされてしまうかもしれない。
アメリカ流の基準を押し付けられて、過労死するまで働いて生み出した成果 を、マネーゲームの一瞬にして吸い取られ、独自の文化も持たず、自分の意見も持たず、そのかわりに生存と安全を保障してもらう、ということなのか。
日本が 生存と安全を保障してもらえればまだしも、必ずしもその保証はない。
ボクは、モンゴロイドのアメリカインデイアンを殺戮して国を奪い取ったアメリカや、アボリネジを狩りして楽しんでいたイギリスが、モンゴロイドの日本人のために自らの血を流すとは思えない。
第二次大戦の時、日本中に爆弾の雨を降らせて、父や母と同じ世代の日本人市民を100万人近くも殺したのは、他でもないアメリカではなかったか。岡山の空襲で、もし母が焼け死んでいたら今のボクが無かったことを考えると、不思議な感じがする。アメリカは ボクの存在に、直接脅威を与えた。アメリカが、日本が無条件降伏を決めたことを知りながら、青森を爆撃したのはなぜだったのか。そこで焼き殺された数万人の日本人の市民の死は、単なるアメリカの殺人の被害者ではなかったか。
朝鮮の脅威があるという人もいる。しかし日本を自衛するのに自衛隊がいたのではなかったか。朝鮮になめられないだけの力を付けて、核の脅しがあるなら、日本の優れた技術で、それを上回る対抗手段を開発すればよい。それが国力というものである。
奴隷が、支配者に刃向かい、あえて死をも恐れないで戦うのは、生存より大切な価値があるからではないのか。ただ安全と生存のみでよしとする世界に安住しないで、生存より価値があることについて考えよう、と思う。
2003年5月21日
店員は神様
フランスの店で買い物をすると、どちらが客か店員か分からないような場面 に良く遭遇する。
店に入ってきて< ボンジュー> から始まって、買った後 < メルシー> を言って、さらに <オーヴォワーマダム > まで言って帰るのは たいてい客の方で、 店員はメルシーも言わないですませてしまう場面 をしょっちゅう目にする。
客よりも売り子の方が偉いのではないかと思うことが良くあるのである。
そんなことを考えて以来、ボクは、店員が <メルシー>と言わない限り、こちらからは言わないことにしている。
これはなにもパリの 日本人の地獄 と言われているルイヴィトンの話ではない。
パリのルイヴィトンの店では、日本人観光客が押し寄せるので、気の弱い日本人観光客が店に入ってもなかなか店員がつかないで、1時間も2時間も待たされることがよくある。
<エクスキューズ みー >を連発して、やっと店員がついたと思ったら、一人1点のみだ、などと売り惜しみをする。 その間に身なりのよい西洋人が店に入ってくると、店員は 微笑みをたたえながら、日本人を放っておいてそちらに行ったりする。
< おまえらの給料は日本人への売り上げで出ているんだろうが>、と悪態のひとつもつきたくなる。何年か前には、あまりの店員の態度に頭にきたやくざ関係のお兄さんが、ヴィトンの店員を殴り付ける事件まで発生したのである。
それはさて置き、先日、日本に進出したフランスのスーパーマーケット、カルフールの話を聞いた。
フランスのカルフールは大型店が多く、支払のレジも何十もあるところがある。そのレジのなかに、買い物の数が10品目以下の小口客 専用のレジがある。大きなキャデーに山のような買い物をしている客の後に並ぶと、待ち時間が馬鹿にできないものになるからである。これを初めて見た時にボクは、合理的でこれも顧客サーヴィスの一つだ、としか感じなかったものである。
ところが、日本のカルフールでも同じシステムを採用して、買い物数が10以下の客専用のレジを作ったところ、クレームが相次いでこのレジが廃止になったとのことである。
そのクレームを出したのは山のような商品を買い込んだ他の客で、<たくさんの買い物をする上客が、なんで少ししか買わない下客(こんな言い方があったか??)より待ち時間が多くなるのか、少ししか買わない客こそ待ち時間が多くても良いはずだ、とのこと。
そう言われてビックリしたのだが、そこはお客様は神様のお国、なるぼどそういう解釈もあり得るのかと、感心したのである。
フランス風の解釈でいくと、< 客はたくさん買うのが当たり前、少ししか買う積もりの無い客は、レジでの待ち時間を嫌がって逃げてしまう、よし、そんな客専用のレジを作って売り上げを上げよう > となったのあろう。
フランスでは、たくさん買い物をして、レジで延々と待たされる客も、それに何の疑問も持たず、おとなしく他の客の買い物の山を眺めている。
なんせ、スーパーのレジ係と客が知り合いで、買い物したついでにレジで世間話に花が咲いて、後ろで待っている他の客もクレームをつけず、5分でも10分でもその話を聞いていたりする国である。
買ってやるという感じの、お客様が神様と崇められる国と、店員の方が偉くて、店員は売ってやる、客は買わせていただく、といった国では、当然やり方も変わってくるのだろう。
どっちが良い悪いという話ではないが、日本風のサーヴィスに慣れてしまうと、急いでいる時くらいはスピーディに買い物したいと思ってしまう。
そんな時、たまたまカルフールにいて、たまたま 5−6点しか買わないとしたら、やはり 小口客専用のレジ があれば、と思ってしまうだろう。
2003年4月7日
支那 はチャイナか?
日本を離れてはや23年、長い間には日本語もどんどん変わっているようだ。
久しぶりに日本へ帰って、< 国鉄 の駅はどこですか? > などと尋ねると、変な顔をされるのである。
普通 の会話をしていても、そんな言葉は良くないから、とたしなめられることがある。
<バカチョン> だの < アイノコ >などは差別用語だから言わないように諭される。
そんな言葉の中で 合点がいかないのは < 支那 > である。ボクは戦時中の生まれではないので、支那 よりも中国の方がピンとくる。しかし何故 支那 と言ってはいけないのか?
23年間しゃべり続けているフランス語では、中国は CHINE (シヌ)だし、英語は チャイナ、 イタリア語、スペイン語では チナ である。 これらの語源は、多分、中国の歴史上現れた 秦、 清などの国名から来ているのであろう。日本語ではこれが シナ として定着して、漢字は当て字で 支那 となったのではないかと、勝手に想像している。語源辞典でもあれば調べられるのだが、モナコの図書館に日本語の語源辞典はない。
<お茶> の語源が、中国語の茶であり、英語のtea、フランス語のthe などとなったのと、いきさつは同じではないか。ちなみに世界の言葉で、茶について中国語の語源を持たないのは、ポーランド語の <ヘルバータ> だけだそうだ。これは植物の葉っぱくらいの意味だろう。
日本の<支那> を規制するなら、英語、フランス語、イタリア語、スペイン語圏などのすべてを対象にしてほしい。 反対に 中国 とは、これこそ中華思想の現れたかなり問題のある言葉のように思われる。世界の真ん中の花の国とは。彼らがチベットでしていることを知っている人は、決して中国と呼びたくないのではないか。 フランス語でも、本国FRANCE は女性形なのに、遠くなればなるほど男性形の国名の増える中華思想の強い国である。フランスの隣の国ベルギー、イタリア、スペインなどは女性形、メキシコ、ブラジル、日本などは男性形である。
中国は何故か LA CHINE と女性形なのだ。 まさかフランス語も 中国の中華思想を支持しているわけではあるまいに。 それにしても、差別 用語というのが良く分からない。
物事をさすのにある言葉があって、そのイメージ悪いからと別の言葉に言い換えても、結局 同じではないかと思う。
メクラの人が メクラという言葉が嫌いで、かといって世間の人がメクラと言わなくなって、なにが変わるのか。
ハゲ、チビ、ノッポ、ブス、金歯、セムシ、ロンパリ、全部言いかえるべきなのか。
フランスで道を歩いていて、< ジャポネ! > と 掃き捨てられるように言われたら、これもやはり禁止してもらわないと困る。
< バカチョンカメラ > がだめなら、<頭の具合がちょっと弱い方でも、朝鮮民主主義人民共和国の方でも、写 せるカメラ > と言い換えることにしよう。
2003年4月7日
フランス語の発音 その2
日本語の発音に慣れていると、どうしても母音+ 子音のセットで発音してしまう癖が付いています。地名のパリやナントなら通 じても、ストラスブールが通じにくいのはこの理由によります。
相手の人によっては全く理解しようとしない人さえいます。最後にやっと分かって、< なんだ ストラスブール のことか > とか言われると、だから最初から ストラスブール と言ってるだろう > と腹が立ってきます。
STRASBOURG のSTR の部分が、日本人が発音すると、子音のあとについ母音が入ってしまいます。STRA は、子音のSと、子音のT と子音のR ですから、一息に STRA と発音しなければならないのですが、 SUTORASUBU のように子音の後に母音が入ると通 じにくくなります。または全く通じません。
基本的な単語で、子音がつながって出てくる単語はかなりあります。 ST、 TR, PR、FR、GR などに注意しましょう。子音2つの間に 母音がはいらないように。
ついでながら、CHの発音は、キャベツの CHOU だの、私の家 CHEZ MOI などでおなじみですが、 日本人の発音はどうも気恥ずかしいのか、歯の見せ方が足りないように思います。このCHは 前歯の上と下の歯を合わせて、まるで自分の歯並びを誇示するかのように思い切り唇を開きます。歯と歯の間から空気を吹き出したシュウという音がCHの音です。
最近の日本人の歯並びはだいぶ良くなったと言いますから、思い切り見せたいものです。
昨年末久しぶりに日本に帰りました。
岡山でほんとうに見た不思議な光景を少々
-医院の看板
イタミ歯科医院 ( コワイ )
ハラ 内科医院 (ナルホド )
-岡山特産 丹波黒豆 ?
倉敷名物 讃岐うどん ??
大きいサイズの店 ミゼール (服 屋の名前) どんな惨めな客が来るのか??
警察の指名手配のポスターに “WANTED” と書いてある。 パロディかとおもったら、下に付いている写真は西部劇のひげ面の悪党ではなく、日本人の指名手配写 真; 誰が作ったポスターなのか、映画の見過ぎではないのか。
何とか委員会 IN 高松
大の政治家や偉いさんが数百人集まって、正面に大きな垂れ幕でこう書いてある。
IN とはなんぞや?? 何故ここだけ英語のアルファベットなのか?? ワカラン
イタリアへ出張でいきました。
トスカナ地方で、近くにいったら必ずよるレストランがあります。モンテカッティーニのジョヴァンニです。本式レストランの隣の入り口はエノテカになっていて、中に入るとレストランとつながっています。
エノテカでは レスランで出すのと同じ料理を一皿でも気軽に注文して、おいしいワインを味わう事が出来ます。
いつも見慣れたイタリアワインのラベルの中に、初めて見るラベルがありました。
なんとヒトラーとムッソリーニのオンパレードなのでした。10種類はあったかもしれません、 総統だの偉大な指導者ということでワインのラベルにヒトラーやムッソリーニがポーズを作っているのです。これもパロディではなく、おおまじめなちゃんとしたワインのラベルなのでした。
なぜ? 何故?? ドイツとイタリアはまたくっつこうとしているのか? フランスやアメリカには輸出できないようなワインを作って、いったい誰がこのワインを買って飲むのか? イタリアやドイツのネオナチ連中が欲しがるのか? 戦後何十年も経って、なぜ今ヒトラーなのか? このワインのぶどうが出来たのは、ムッソリーニの生まれた地方のものなのか? ????
あまりにビックリして、そこの顔見知りの主人にこのワインについて聞くことさえ忘れていました。次回行った時には必ず尋ねてみよう、そしてワインコレクションの一本としてヒトラーとムッソリーニのワインを試しに買っておこう、と思っています。
でも、いかにもイワクありげなこのワイン、次に行くまでちゃんとあるのでしょうか。 左翼の圧力に負けて店頭から引き上げてもう無かったりして。 反対に 、我が日本の ヒロヒトが加わっていて、もっと充実したコレコションになっているかもしれません。
しかし、もし日本で、信州の地酒かなにかで、ヒロヒトが軍服を着ているラベルの酒があったら、あなた買います??
アムステルダム の THANKYOU 。
KLMの乗り継ぎでアムステルダムの空港で降りました。 オランダという国は、オランダ語を母国語としてあまり誇りを持たないと聞いていますし、賭博や売春、麻薬さえも合法化して国が取り仕切っている不思議な国、進んだ大人の国と思っています。
さて 空港で税関を探して、KLMのカウンターの人にどこにあるか尋ねると、すぐそこだと言われました。右か左かと聞くと、この壁をつたってずうといくとすぐわかる、というのです。言われたように行ってもまったくわかりません。空港に出ている看板にしても、なんか思考回路が全くちがったような論理で作られているようです。 何回も尋ねてもまったくわからず、金髪で色白な小柄なKLM職員を見つけると、また尋ねました。
< 簡単だ、そっちに歩いていくとすぐ分かる > との答え。
どの方向かと指で右左をさして、方法を定めようとしますが、なんか要領を得ない感じです。ではここから何メートル先にあるのか? と聞いても、すぐそこだ簡単にわかるというばかり。
私の場所を探す方法は、 頭のなかには座標を引いて、方向と距離を定めてその地点に行く方法があります。もしそうでなければ、ある地点の目印から次の目印をさして、最終的に目的地に着く方法もあります。
しかしなぜか、オランダではどちらの方法も使われていないようです。簡単だあっちの方へ行くとすぐ分かるでは、あっちとはどっちなのか、どれだけ歩けばよいのか、見当もつきません。
まったく要領を得ない僕に腹を立てて、金髪の女性は僕のことを馬鹿よばわりします。 売り言葉に買い言葉、<こんな国には2度と来ない、> というと、彼女は言いました。 < THANKYOU! > それ以来2度と行っていないのは言うまでもありません。
オホハ って誰だ??
日本の人に良く言われるのは、“英語はともかく、フランス語はどうも発音が難しいから、”ということである。確かに英語の単語は日常生活に外来語として良く出てくるから、親しんでいるといえよう。
しかし英語もフランス語も一応学んでみると、例外が多くて発音が難しいと思われるのは、、むしろ英語の方である。
ここでは少し、経験にもと付いたフランス語の発音の話をしよう。
フランス語の発音の中で、日本人にとって苦手なものの代表は、R の発音ではないかと思う。
パリに来たばかりの頃、毎日アリアンスフランセーズに通って、その最初の頃の若い女教師はなかなかグラマーな美人で、しかし何故かRの発音はスペイン語風だった。いまから思えば多分その先生はピレネー山脈の近くの出身だったのではないかと想像する。よって、パリに来て最初の1,2年間の僕のフランス語は、Rの発音は見事な巻き舌のRだった。
そしてしばらくして、やはり発音をなおされたりして、Rの発音をどうすれば良いかと考えている時に、発見したのは、Rの ラリルレロ を、ハヒフヘホ というような積もりで発音すれば、それらしく聞こえるということであった。
つまり、PARIS なら、“パヒ” と言うつもりで口をつくって、息を口蓋の奥、ノドチンコのあたりで震わせればよいという事だ。
AMERIQUE ならアメヒック、MERCI は メフシ と言った具合だ。
去年9月から 娘のセシルがモナコの幼稚園に行くようになったのだが、今日は クラスのオホハ と遊んだ、とか言っているのである。他の友達は、バレンティンにニコラ、ケリー、アレキサンドル、などといっているのに、オホハ って誰だ??ひょっとしてアラブ系の金持ちの娘がいるのか?? アフリカ系の大使館員の娘か??
何日かして気がついたのは、これは フランス語の AURORE で、カタカナで書くと オーローラ、 最後の母音は、オとウの中間のような発音である。 そしてこれを、ハヒフヘホ の法則で読むと、オホハ となるではないか。 3歳の、カタカナを知らない日本の幼児には、フランス語のR の発音はハヒフヘホ と聞こえていたのだった。
今から10年ほど前 、フランスから時々ふるさとの岡山に帰ってくると、小学生の甥や姪が歓迎してくれて、そのお礼にフランス語を教えてあげたものだった。もちろんRの発音はハヒフヘホ である。
畑や田んぼが残った古い村の家並みの片田舎で、 ありがとうの代わりに MERCI だの、犬の糞を見つけると MERDE ! と本場の発音で 叫んでいる姿は ちょっと不思議な感じであった。
これから50年もすると、何故かこの村の住民の言葉だけがフランス語の影響がある、そのなぞを探ってもわからないので、東洋のバスク地方だの、東北に来たイエスキリストと並ぶ謎としてあつかう民俗学者や言語学者が出てきたりする可能性もある。
そうならないように、今ここに書いて置こう。 村の子供に ハヒフヘホを教えた張本人は 僕だったのだ。
私は オンダ に乗っている??
フランス語の発音で、英語と違っていることのひとつに、Hの発音がある。
フランス語の文法上は、Hにも有声のHと無声のH があることになっているが、実際の発音ではHの音はない。
よって、ホテル はオテル、ヒストリーは イストワー。 また ホンダの車は オンダ、 日立の建設機械は イタチ である。
傑作なのは、英語のハイファイ HI‐FI は、フランス語 ではそれをそのままフランス語読みして、 イッフィー である。
それぞれの国の人に苦手な発音があるように、フランス人にとってH は難しい。 日本語を学ぶフランス人の学生が、< ワタシ は アシ で食べます>、 だの
< アル のアナ はきれいです>、などと意味不明の事を言っていたら、 ためしにH を付けて考えてみてあげようではありませんか。
花と草
海外で夫婦2人だけが日本人だと、子供の言語環境は、両親の使う言葉に左右されてしまうようです。 知り合いの日本人と、その子供とうちの子供が、一緒に公園に行きました。
< ほら見て、きれいな花ねぇ 。>
知り合いの子は、公園に咲いている花を見ているのに、うちの子は自分の鼻を手でつまんでいるではありませんか。
< あら 草もあるわねぇ 。>
知り合いの子は、茂る草を見ているのに、なんとうちの子は鼻をつまんで クッサーをしているではありませんか。
工事 工事 工事
モナコにはとにかく年中いつも、工事のためのクレーンが立っていて、いつもどこか で建物の工事が行われています。
今のアパートに住み始めて3年、うちの近所でも 3年間工事が続いています。
引越してきてすぐに、2軒隣のカルメル派の教会が壊されて、教会と幼稚園、一般 の マンションの入った13階建ての建物が建ちました。何故かいまでも人が住んでいな いのは、不気味。
次は北側の小さな建物が壊されると、7階建ての高級アパートが建ちました。最上階 はペントハウスになっていて、非常に凝った高級マンションになっています。 (やはり空家の状態。)
その次は北東の古びたアパートが壊されると、すぐ横のモナコ王子レニエの所有する ロックフルリという高級アパートに隣接される形で、新しいアパートが工事されてい て、基礎工事の後、現在2階の辺を作っています。
そして、うちのすぐ横の建物が壊されると、これも道をはさんだ形でロックフルリの 関連アパートに作り直す工事が行われています。 この二つのロックフルリの工事が うちのすぐ隣ということもあって、工事の音のう るさい事うるさい事。
先に始まった現場の基礎工事の耐え切れないような音が終わったと思いきや、次の建 物の基礎工事が始まって、すでに一年以上、 日夜、ものすごい音がうちの生活を脅かしています。
僕は香港に住んだことがあって、その時に見た建築工事は圧倒的でした。タイムスクエアのすぐ近く。基礎のコンクリート柱を打ち込むのに、巨大な鉄の輪っかが爆音と 共に上下して、コンクリート柱の頭を砕きながら打ち込んでいくのです。
鉄の固まりが上下するたびに、青白い排気ガスをはきちらし、何よりもすざまじい爆 音が、すぐ隣のアパートの窓の、ほんの数メートル先で爆裂しているのです。そこに 住んでいる人はー − − !!
モナコの場合、クレーンに釣り下げられた掘削機が、油圧で岩石を切り崩し、それを 何故か水で溶かして巨大な沈殿器のような物にいれて、そこから土砂だけが出て、そ れをトラックが運び去っていくのです。その音のすごいことと、工事機械から出る ディーゼルエンジンの排気ガスの臭い事は、冬なら窓を閉めていられるものの、夏なら暑さでぐったりしてしまいます。
すでに何人もの知り合いと何家族かの人が、単に工事の音がうるさいからという理由で引っ越していったことからも分かるという物です。
僕は、以前パリの凱旋門のすぐ横に住んでいましたが、7月13日の夜、夜中の零 時に巨大なスピーカーの音が聞こえ、車のステレオを全開にしたキチガイがいると、 すぐに警察に電話して取り締まるよう、苦情を言った事がありました。
警察はその音がなんだったのか言いませんでしたが、後で考えると、革命記念日 (いわゆるパリ祭 )のパレードの準備をしていたに違いありません。国家の威信を かけた記念日の準備だったので、一住民のうるさいという苦情などは取り合ってもらえないのは当然でした。
しかしモナコのこの騒音はどうにかならない物でしょうか。朝の7時から、夜の9時まで休みなく、そして時には、夜中の3時までやっている事もあります。工事の予定が遅れていたのかどうか知りませんが、夜中の3時は非常識です。昨日などは、なぜか夜中ずっと朝まで工事をしていました。そしてこんな工事ががすでに何箇月も続いているのです。隣 の建物の工事も合わせると3年も工事の音が続いているのです。
しかし、この工事で作っているのは、ロックフルリのアパート。泣く子もだまるというモナコ王子レニエ大公が工事の依頼人とあれば、国家事業ともいえる工事。うちの 子供が泣くからどうにかしてくれという方が非常識というもの。だまってがまんする しかないのでしょう。
もしこれが日本だったら、国民の税金を使って、国民に迷惑をかけるとはけしから ん、公害だという話になるのでしょうが、ここはモナコ。 税金も払っていないし、モナコに居られるのは、レニエ大公の優しい配慮で居住許可を与えてもらっているから、居させてもらっているのです。いやなら出て行け。たったそれだけの事なのです。
アリガタヤ アリガタヤ。メルシ グラッチェ。
某月 某日
娘は今年 6月に 3歳になり、9月から幼稚園が始まりました。こちらの学校は9月が新学期なのです。
王宮の近くのロッシェにある、ニコラバレという幼稚園に通 っています。朝8時45分は、幼稚園と小学校の始まる時刻。ここに通う生徒を送ってくる親の車が、続々と ロッシェに向かって集まってきます。 親は子供を送ってこなければならない決まりになっているのです。
たまに、僕も娘を車に乗せて送る事があります。幼稚園前に 集まる車は、なかなか 見ものです。
ベンツは普通。ジャガーにベントレー、ロールスにポルシェといった具合です。ベンツにしても、S、CL、新型のSL AMGなどなど。3、4 歳の子供を持つ母親 が、なんでこんな車を使いこなせるのかと思うのは、僕のひがみでしょうか?
さてさて、うちの車は、ニッサン マーチ でした。
幼稚園日記 BY KUMI
3才の娘が9月より王宮地区の私立幼稚園に通い始めました。
モナコの幼稚園は私立が3個所、公立が地区別に数箇所ありますが、中学になると、どちらも それぞれ 1個所に統合され、 各1校ずつとなります。
どうして ここの幼稚園に決めたかというと 理由は−親が共働きでなくても,昼食を食べさせてくれるのは、ここだけだったからという単純なものと先生方がみんな子供の動きをしかっりと観察していて、個性を見守ってくれ、とても良い感じだったからです。
実は、我が家のアパートのすぐ隣に今年はじめ改築され新しくなった公立幼稚園があるのですが、3歳児はお昼に連れて帰るのが条件で年長になっても給食は母親もフルタイムで働いている家庭のみということで、車に乗って10分程度の園にきめたわけです。
日本の制度と違うところもいろいろあります。入学式も通学服もありません。(が数日前11月19日は公国祭でしたが、その前日には生徒全員に国の象徴の色である赤と白の服を着用して下さいというしていがありました。みんなちゃんとそれなりの格好でなかなか壮観でした。)
入園条件についていえば・年齢が該当することぐらいです。特に子供の能力試験や面 接も無く、書類を揃えて両親が出向きあとは、学校よりの許可を待つのみといった具合です。
募集定員も少なく、何が優先かというとモナコ人であること。が最優先で あとは、モナコ住民、学校やモナコとどんなコネクションがあるかとか、どれだけモナコに影響力があるかといったものではないかと勝手に想像しています。
なぜ 我が子が入れたかは?です。
授業料も中学までは年間、十数万円だし(公立においては、ほぼ無料らしい)寄付金とかが、すごいんでしょうか?
それでも毎日運転手付きで両親が送り迎えに来る同級生のA君や、そうでなくともロールスロイス、メルセデス、ジャガー、BMWなどきりがありません。なのに娘は車で迎えに行くと必ず駄 々をこね(まさか他より車が劣っていることを察知しているとは思えないが....)‘’私はバスで帰りたい! 今日は絶対バスに乗る・・‘’と困らせてくれる毎日であります。
パヴァロッティ コンサート by KUMI
三大テノールのパヴァロティがモナコでヴェルディを歌うというので、同じモナコ住民として是非聴きにいかなくては?と足を運びました。会場はグリマルディフォーラム。主人の仕事の都合で会場入り口で待ち合わせること約20分間鑑賞しに来た人の観察をする私...今宵は黒の服が指定されていたのかと思うほどみーんな黒。男性はタキシード姿も多い。私はオレンジ色の服でちょっとハズシタかなーと考える。
入り口に立っていると 普段、車両禁止の所にまで乗り付ける車、運転手がドアを開けるとどこからかカメラマンも数人駆け付ける。誰だろう?ぜんぜん知らない人… 他のところに目を向けると集まってくる人が皆、知り合いのように挨拶をしている。
会場に1歩も入らぬうちから疎外感…。
開演5分前のベルが鳴る。連れは来ないけど、1人で入る勇気も無いしとゆっくり進んでいるとやっと主人が来る。ほっと ひと安心。
会場は以前、某下着メ−カーがミスフランスのスポンサーをした時に来たことがある。
案内係のかわいいお姉さんに席まで誘導してもらう。もう開演時間が過ぎているのに、まだまだ始まりそうにも無い。
プログラムを見ると18曲。約15分遅れ、アルベール王子のお言葉や食料難民を救いましょうという数人のスピーチの後、30分遅れ21時開演。
パバァロティはさすが、出てきただけで迫力がありますが、寄りかかり棒の様な物も設置されていて、歩く姿は頭が無ければなんとなく小錦のよう?それでも歌うと聴衆を魅き付ける力はさすがでしたが、脇を固めた他の出演者がこれまたすばらしかったです。ポスターをみる限り彼のリサイタルのようでしたが、出演率は3割程度。それでもラストは彼自身のバースデーソングを会場みんなで合唱して、アンコール2曲の大盛況のうちに幕が閉じられました。
もう少し年を取る前に聴きたかったきもするけど、すばらしい夜でありました。
PS) パヴァロッティはこの夕のコンサートの売上金のうち、22万ヨーロを、FAO に寄付しました。
世界中の飢えた子供を救おう!!